■Umrao Jaan (監督:ムザッファル・アリー 1981年インド映画)
映画『Umrao Jaan』はムガル帝国末期のインドを舞台に、悪党にさらわれ娼家に売られた少女が踊り子になり、悲しい恋の運命に翻弄されてゆく、という文芸ドラマだ。原作である『Umrao Jaan Ada』(ミルザー・ムハンマド・ハーディー・ルスワーによる1899年出版のウルドゥー語文学)はこれまで何度も映画化されているということだが、今回観たのは1981年製作のムザッファル・アリー監督によるもの。主演をレーカー、ファルーク・シャイク、そしてナセールッディン・シャーが務めている。なおこの作品は2006年にJ・P・ダッター監督によりアイシュワリヤー・ラーイ、アビシェーク・バッチャンを主演とした映画としても製作されているがこちらのほうは未見。
《物語》1840年、インド北部の都市ファイザーバードで生まれ育った少女アミーランは、父の仇敵により誘拐され、ラクナウの娼館に売り飛ばされてしまう。アミーランはそこでウムラーオ・ジャーンという源氏名を付けられ、芸妓として歌と踊り、そして詩作の教養を叩き込まれる。成長したウムラーオ(レーカー)はその類稀な美貌と踊りの素養により街中の噂となり多くの客を魅了する。その中には地方豪族の息子ナワーブ・スルターン(ファルーク)がおり、二人には激しい恋が芽生えるが、ナワーブの家族はそれを決して許さなかった。愛する人と引き裂かれ、傷心の中涙にくれるウムラーオにもう一人の男が近づく。その男ファイズ・アリー(ラージ・バッバル)は貴族を装っていたが、実はある盗賊団の首領だった。
いやこれには魅了された。なによりも主人公ウムラーオを演じるレーカーの、その硬質な美しさだ。レーカーといえばこの間アミターブ・バッチャン主演のヤシュ・チョープラー監督作品『Silsila』(1981)を観たばかりだったのだが,この時は「作りもののように綺麗な人だけれどなんだか冷たい感じだなあ」としか思えなかったのが、今作ではその冷たい美しさが十二分に主人公の孤独と悲哀を醸し出し、その憂いの籠った目つきにはまさに吸い込まれてしまいそうなのだ。そんな彼女が踊り子となり、インド舞踊を踊るその様は華麗そのもの、特に映画で披露される歌と踊り「Dil Cheez Kya Hai」「In Aankhon Ki Masti」は、そのトラディショナルな美しい衣装と音楽も相まって見入ってしまった。
こういった歌と踊りに限らず、映画全体がインド独特のトラディショナルさに彩られていることも魅力のひとつだろう。ムガル帝国末期という時代背景、その中から立ち上がるかつての古きインドの情景、衣装や小道具などの諸々のセット、文芸小説を原作とし、運命に翻弄される一人の女という誰にでも分かり易くシンプルで、そしてストレートに感情に訴える物語。作中で登場人物が詠む詩歌、そして劇中歌の歌詞ひとつにしても心に響いてくる。これらが入り混じり合い、作品全体がえもいわれぬ"美"で演出されているのだ。同じくムガル帝国時代を背景とした踊り子の物語として以前『Pakeezah』(1971)という作品を観たことがあるが、非常に芸術性の高かったこの『Pakeezah』と比べるなら、『Umrao Jaan』はより大衆的なメロドラマとして敷居が低く、受け入れやすいものとなっているだろう。
そしてこの物語は、主人公ウムラーオの人生を悲劇という激烈さではなく、あくまで悲哀を基調としたたゆたうような美しさで謳い上げようとした部分が注目すべき点だろう。それははかなさであり、日本風に言うなら侘び寂びである。いかな美しさと秀でた芸術の技があっても、所詮ウムラーオは籠の鳥でしかなく、そして娼婦でしかなかった。誰もと同じように愛を求めながらも、彼女が背負わされた運命はそれらを全て蝋燭の火のように吹き消してしまった。彼女はその運命を乗り越える術もなく、ただ一人ぽつねんと孤独の中に立ち尽くす。この物悲しさと切なさが、はらはらと降り積もる雪のように次第に物語を覆い尽くし、そしてそんな物語を観ながら、時代の奥底に埋もれたある一人の女の人生に、つい思いを馳せてしまう。そんなしみじみと素晴らしい作品だった。