インド映画を巡る冒険(仮)

以前メインのブログに書いたインド映画記事のアーカイヴです。当時書いたまま直さず転載しておりますので、誤記等ありましてもご容赦ください。

絢爛たる映像に包まれたバンサーリ監督による歴史映画大作『Bajirao Mastani』

■Bajirao Mastani (監督:サンジャイ・リーラー・バンサーリ 2015年インド映画)

■舞台はムガル朝時代

映画『Bajirao Mastani』は『銃弾の饗宴:ラームとリーラ』のサンジャイ・リーラー・バンサーリ監督、同作品に出演したランヴィール・シン、ディーピカー・パードゥコーン、プリヤンカー・チョープラーが主演となる歴史大作である。
『Bajirao Mastani』は1720年、インド・ムガル朝時代後期が舞台となる。そしてそのムガル帝国と対立していた時のマラーター同盟宰相、バージラーオがその主人公となるのだ。とはいえ、こうやって書いていてもインドの歴史に疎い自分にとってはなにがなにやらだ。そんなわけでザックリとではあるがWikipediaの記事をコピペしてこの時代の自分用メモを置いておくのでよろしければ参考にしていただきたいし、知ってる方は飛ばしてくれればいい。

ムガル帝国ムガル帝国は、16世紀初頭から北インド、17世紀末から18世紀初頭にはインド南端部を除くインド亜大陸を支配し、19世紀後半まで存続したトルコ系イスラーム王朝(1526年 - 1858年)。首都はデリー、アーグラなど。ムガル朝とも呼ばれる。
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マラーター同盟マラーター同盟(1708年 - 1818年)は、中部インドのデカン高原を中心とした地域に、マラーター王国の宰相(ペーシュワー)を中心に結成されたヒンドゥー教徒のマラーター族の封建諸侯の連合体。18世紀にムガル帝国の衰退に乗じて独立し、一時はインドの覇権を握ったが、18世紀末から19世紀初頭の3次にわたるイギリスとのマラーター戦争で滅亡した。

バージー・ラーオ…バージー・ラーオ(1700年8月18日 - 1740年4月28日)は、インドのデカン地方、マラーター王国世襲における第2代宰相(ペーシュワー、1720年 - 1740年)。マラーター同盟の盟主でもある。バージー・ラーオ1世、バージー・ラーオ・バッラールとも呼ばれる。彼はシヴァージーの再来ともいえる人物であり、「シヴァージーに次ぐ、ゲリラ戦法の最も偉大な実践者」と後世に語られている。また、その20年の統治期間の間に、マラーター同盟の軍はデカンを越えて北インドにまで進撃し、デリー近郊にまで勢力を広げ、その広大な領土は「マラーター帝国」と呼ばれた。

このように、映画の背景はインド亜大陸の覇権を巡りムガル帝国マラーター同盟が戦闘を繰り広げていた時代であり、さらに主人公バージラーオは実在の人物なのだ。彼は「若年にもかかわらず、武勇と知略に非常に優れていた。さらに兵士らにはとても人気があり、今日にまでそれは伝わっている」男、要するに【名将】だったのだという。映画はマラーティー文学である『Raau』を原作としているが、物語で描かれるドラマがどの程度まで史実なのかオレは確認することができない。まあ、あくまで史実を基にして脚色されたドラマと観ておけばいいのだろう。

■一人の夫と二人の妻の物語


物語はバージラーオ(ランヴィール・シン)のペーシュワー(宰相)就任から始まる。各所で目覚ましい戦績を重ねる彼は遠征中のある日、テントに侵入し彼を威嚇する異国の使者に目を留める。彼女こそはブンデールカンド王の娘マスターニー(ディーピカー・パードゥコーン)であり、自国に侵略してきたムガル軍勢の排除を要請してきたのだ。マスターニーの勇猛さに感銘したバージラーオは要請を受け入れただちにムガル軍を打ち倒し、別れ際彼女に自らの短剣を送る。だがそれはマスターニーの故国で求婚を意味する行為であり、マスターニーはバージラーオを追って彼の住むプネーに訪れる。バージラーオはマスターニーを受け入れるが、彼には既にカーシーバーイー(プリヤンカー・チョープラー)という妻がおり、さらに彼の母ラーダーバーイー(タンヴィー・アーズミー)はこの婚姻を全く快く思っていなかった。だが、度重なる嫌がらせを受けながらも、バージラーオとマスターニーの愛は激しく燃え上がってゆくのだった。

この物語のポイントとなるのは、ムガル朝イスラム教を主教としており、マラーター同盟ヒンドゥー教だった、という部分だろう。ただしこの時代、ムガル朝は他宗教に関して寛容だったらしく、これなどは同じくムガル朝を舞台とした歴史ドラマ『Jodhaa Akbar』(2008)において、ムガル皇帝アクバルとヒンドゥー教徒の王女ジョダーとの政略結婚という形で描かれている。この『Bajirao Mastani』においては立場が逆となり、イスラム教徒の娘マスターニーとヒンドゥー教徒であるバージーラーオとの婚姻が波乱を呼ぶ。ただしこれも宗教的なものというよりは「下賤な他部族の女を嫁にするな」といった含みなのだろう。こちらなどはやはりムガル朝を舞台とした歴史ドラマ『Mughal-e-Azam』(1969)におけるムガル皇帝と踊り子の娘との禁じられた愛に似たものを感じる。

ここで挙げた映画『Jodhaa Akbar』にしても『Mughal-e-Azam』にしても、かつての大帝国ムガル朝の王宮というスケールの大きな物語に見えながら、その内容は皇帝とその妻/愛人とのロマンス要素が中心となった物語だった。それはこの『Bajirao Mastani』でもそのまま踏襲される形となり、大きな歴史のうねりを描く作品というよりはマスターニーとバージラーオとのロマンスと、それを阻む大きな障害といった部分に比重が置かれている。そして思いっきり卑小に言うならば、『Bajirao Mastani』の物語とは姑の嫁いびりをひたすら大げさに描いた作品だということになってしまう。こうして見るとインド歴史映画の本質にあるのはその歴史性云々というよりはロマンスを中心としたメロドラマであり、ある意味大いにインド映画らしいと言うこともできる。だが『Bajirao Mastani』がそれだけの物語だということは決してない。

■究極まで高められた絢爛たる美術


『Bajirao Mastani』の本当の見所は、究極まで高められた豪華絢爛たる美術にあると言っていい。その贅沢極まる衣装、衣装を飾る宝飾の輝き、そして威容を誇る宮廷の作りとそれを飾る煌びやかな内装、さらに美しい歌に合わせて踊られる魂をも蕩けさすダンス・シーン、それらを写す完璧に計算されつくしたカメラアングルとカメラワーク、全ては【美】そのものに奉仕するために作られたと思わせる様な壮麗たる映像に包まれているのだ。監督であるサンジャイ・リーラー・バンサーリはそもそもがその映画作品の美術に徹底的にこだわる男として知られており、出世作『Devdas』(2002)にしてもオレの愛して止まない作品『銃弾の饗宴 ラームとリーラ』(2013)にしても、なによりその美術に目を奪われ感嘆させられる作品だった。

そしてこの『Bajirao Mastani』は、そういったバンサーリー映画、バンサーリ美術の集大成であり最新の進化形であると言うことができるのだ。これはCGIブルースクリーン技術といったVFXテクノロジーの進化が、バンサーリの思い描く美術構成にようやく追い付き、それをより的確に再現できるようになった、という部分が大きいだろう。だからこそこの『Bajirao Mastani』はバンサーリ映画の最新進化形であり現在における完成形であると言い切れるのだ。バンサーリーはこの作品においてインド映画最高の美術を結集して製作された『Mughal-e-Azam』に挑戦状を叩きつけたとも言えるのではないか。少なくともこの領域においてバンサーリ監督は既に世界レベルの技量に達しているとオレは確信した。ものみな黄金に光り輝く宮殿内部で、これまた黄金の衣装を身に付けたディーピカー・パードゥコーン演じるマスターニーの踊りのシーンなどは、そのあまりの美しさに陶然となってしまった。この美しさを堪能できないなんて、一般公開の無い日本はある意味不幸だとすら思う。

■素晴らしい出演陣


美術だけではなく、主演者たちもまた素晴らしい。宰相バージラーオを演じるランヴィール・シンの、その雄々しく猛々しい立ち姿、支配者ならではの鷹揚さと戦いの際の勇猛さ、そんな彼が愛に躓くその脆さ、どれもが記憶に鮮明だ。そしてマスターニー演じるディーピカー・パードゥコーンの、その凛とした美しさ、戦いに挑むときの冷たく燃える目つき、逆境の中ですらそれをものともしない強固な意志の様、もうなにもかもが愛おしい。さらに第一夫人カーシーバーイーを演じるプリヤンカー・チョープラーも忘れてはならない。常に慈愛に溢れ輝く様な優しい笑みを浮かべ、愛する夫の前で子供のようにはしゃぐその姿、第二夫人マスターニーに向ける仄かな嫉妬とその嫉妬自体に困惑するアンビバレンツ、この作品で最も大きな感情の起伏の様を演じてみせたのはプリヤンカーなのかもしれない。

こうして、ものみな光り輝き、どこまでも愛おしい登場人物たちに彩られたバンサーリー入魂の歴史大作『Bajirao Mastani』、ひたすら堪能させられる充実した作品であったが、次はBlu-rayで…とは言わずまた劇場で観たい。次はもっと大きなスクリーンで!あと日本語字幕もお願い!

■予告編

 

■Deewani Mastani Full Video Song (これがもう本当に美しい)

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