インド映画を巡る冒険(仮)

以前メインのブログに書いたインド映画記事のアーカイヴです。当時書いたまま直さず転載しておりますので、誤記等ありましてもご容赦ください。

ロマンチックが止まらない〜映画『Dilwale Dulhania Le Jayenge』 【SRK特集その5】

■Dilwale Dulhania Le Jayenge (監督:アディティヤ・チョープラー 1995年インド映画)


ボリウッド・ラブ・コメディの金字塔!

インド映画好きなら知らないものがいないと言われ、あのシャー・ルク・カーンの代表作でもあるボリウッド・ラブ・コメディの金字塔『Dilwale Dulhania Le Jayenge(DDLJ)』をやっと観ました。1995年に公開され大ヒット、ムンバイのとある映画館ではほぼ20年、述べ1000週以上のロングラン公開をした、というインド映画史に残る映画でもあります。ちなみに1995年というとあの『ムトゥ 踊るマハラジャ』のインドでの公開年でもあるんですよ。この作品、なにしろ有名作なだけに、インド映画の紹介文を読むと事あるごとにタイトルを目にします。それだけ後々のボリウッド・ラブ・コメディに影響を与えている、ということなんですね。そして実際に観てみたところ、自分が今まで観た最近のインド映画に様々なモチーフが流用されていることが確かに分かりビックリしてしまいました。

物語はシャー・ルク・カーン演じるお調子者の大学生ラージと、カージョール演じるロンドン育ちの娘シムランがヨーロッパ旅行で出会い、最初ギクシャクドタバタするものの次第に想いを寄せ合ってゆく、というもの。しかしシムランには父親(アムリーシュ・プリー)の決めた顔も見たことの無い婚約者がおり、二人の仲は風前の灯となってしまうんです。結婚のためにインドへ旅立つシムラン。それを追ってやはりインドへと向かうラージ。ラージはシムランの父と向き合い、なんとか自らの真心を理解してもらおうと努めますが、その気持ちはなかなか伝わりません。しかし二人の仲を知ったシムランの母は、二人に「そこまで想い合っているのなら駆け落ちしなさい…」と助言するのですが、ラージはそれを善しとしなかったでした。けれどもシムランの結婚の日は刻一刻と近づいていくのです。

■ロマンチックが止まらない!

映画を観始めて間もなく、主演二人の純粋さ、初々しさに顔がほころんでしまいます。ラージの子供っぽいヤンチャぶり、シムランの恋に恋する純真な様子、今やラブ・ストーリーではこういったキャラクターが登場することは難しいかもしれませんが、無垢な愛を基本とするインド映画では基本中の基本であり、だからこそラブ・ストーリーの古典的かつ王道的なキャラクターとして彼らは登場するのです。実際の所、初登場時は二人とも野暮ったく見えるのですが、物語の進行に合わせどんどん魅力的に見えてくるのが不思議です。そしていつもヘラヘラしたラージとお堅い子女のシムラン、初めて出会った二人は水と油でまるで意見が合わず、バカやってるラージの隣でシムランが常にうんざりさせられている様子がコミカルに描かれてゆきます。二人は列車に乗り遅れてグループから離れてしまい、二人きりでいる事を余儀なくされます。しかし共に行動するうちに、お互いに恋の炎が燃え始めるのです!ここから映画はコミカルさの中にロマンチックさがどんどん加味されてゆき、次第にそのロマンチックが止まらなくなってゆくんですね!

まずぐっときたのは、二人がお互いの想いを知りながら旅の終りに別々にならねばならなくなった、その後の二人の描写でしょう!それぞれの家に帰るため別れた二人ですが、彼らの脳裏にはお互いの姿が鮮やかに焼き付いており、各々の目の前に、旅の最中の豊かな思い出が、楽しかったひと時が、フラッシュバックとなって蘇ってゆくのです。そしてたった今別れたばかりの恋しい相手の幻が、今まさにそこに立っているかのように見えてしまうのです。くうぅー!これだ、これだわ!恋愛してる時ってこういうのだわ!街中歩いていてもそこにいない筈の好きな相手の姿が見えてしまったりするもの!歌と踊りを交えて演じられるこのシーンでのロマンチックさと切なさはまさに最高潮、もう心とろけさす素晴らしいシーンなのですよ!そして私は結婚するから…と別れたシムランの家へ諦めきれずに向かうラージ、そこには既にシムランの姿は無く、絶望するラージでしたが、ふと見ると玄関先に二人の旅の思い出の品が…ここでラージはシムランの本当の気持ちを察するのですが、いやあ、このシーンは観ていてワタクシ、「うおおおお!行ったれ!行ったれやラージ!行ってシムランば奪ってこい!」と拳握って盛り上がりまくってましたよ!(…どんだけなんだオレって)

■決して君を諦めない!

結婚を目前に控えたシムランのいるインドの家へとラージは辿り着きます。ここでラージは、シムランへの想いをひた隠しにしながら、彼女の父に、「自分という人間の誠実さ」を理解してもらおうと奮迅します。シムランも、シムランの母も、もう駆け落ち以外に道はないのでは、とラージに持ちかけますが、ラージはこれを跳ね除け、「家族みんなが幸せになるのが結婚の正しい姿なんだ」と説得するんです。しかーし、この父親ってぇのが一筋縄にはいきません。まさにインドの超保守的で家父長制度の申し子みたいな父親を代表するかのような存在で、実際の所インドの親父ってぇのはこうなんだろうナァ、と思わせてくれます。最近はどんどん変わってきているようですが、基本的に親の決めた結婚ってぇのはかの国では絶対だったりするのでしょう。そして、だからこそ、この物語のような「親の決めた結婚を素っ飛ばして好きな相手と結ばれる」みたいなお話が、ひとつのファンタジーとして成立するのでしょう。このモチーフはもうホントにインド映画の基本系で、『DDLJ』が最初だったかどうかはオレは知らないのですが、どちらにしろインド人に「我が意を得たり」と思わせる構成だったからこそ大ヒットに結び付いたのでしょう。

そしてもう一つこの物語の根幹となるのは、「決して逃げださず、諦めず、障害となるものに真摯に向き合って、それをなんとしてでも解決しようとする」という、どこまでも前向きなアクティブさでしょう。これなども実は、多くのインド映画の根幹となるテーマの一つなのではないかとオレなんかは理解しています。これはヒンドゥー教聖典である『バガヴァッド・ギーター』の、詩句の中に散見する教義でもあるのです。それは「執着することなく、常になすべき行為を遂行せよ(3章)」であり、「不殺生、忍耐、廉直。師匠に対する奉仕、清浄、堅い決意、自己抑制(13章)」という"正しい知識"の中に語られていることなんです。ラージの行動とはまさにこれであり、彼の行動の隅々からそれを伺うことができるんです。こうしてインド人の心をがっちり掴みながら、物語は怒涛のクライマックスへと向かうのですが、ああああああのラスト!あのラスト!「走り出した列車から…」ってこれ、あんなインド映画やこんなインド映画が目に浮かぶ浮かぶ!