インド映画を巡る冒険(仮)

以前メインのブログに書いたインド映画記事のアーカイヴです。当時書いたまま直さず転載しておりますので、誤記等ありましてもご容赦ください。

「寡婦差別」というインドの因襲に立ち向かった男〜映画『Prem Rog』【ラージ・カプール監督週間】

■Prem Rog (監督:ラージ・カプール 1982年インド映画)

I.

恋心を抱いていた幼馴染は人の妻となってしまった。しかし彼女はまもなく夫を亡くし未亡人になってしまう。主人公はそんな彼女の人生を立て直すためになんとか力になろうとする。リシ・カプール、パドミニ・コルハプア主演による1982年公開のインド映画『Prem Rog』は、こんな粗筋だけなら一見ありがちなラブロマンスでありメロドラマのようにも思える。しかしこのドラマは、実はインドならではの不条理な因習に押し潰される人々を描こうとする作品なのだ。

《物語》貧しい孤児であるディヴダー(リシ・カプール)は、強力な豪族の長の一人娘、マノラマ(パドミニ・コルハプア)と幼いころから強い友愛で結ばれていた。慈悲深い豪族の長はディヴダーが学問をするために都会に行く援助をしていた。8年後生まれ育った村に帰ってきたディヴダーは、美しく成長したマノラマと出会い、恋に落ちる。しかしこれまで家族同然の付き合いをしてきた彼女に、ディヴダーは恋を打ち明けることができなかった。そうしているうちにもマノラマの結婚が決まってしまう。しかし新郎は結婚式の間に事故死してしまい、マノラマは結婚間もなく未亡人となってしまう。しかもマノラマの義理の兄が彼女をレイプし、彼女は取り乱したまま親元へと帰る。マノラマの困難な状況を知ったディヴダーは、彼女が人生を建て直し笑顔を取り戻すために協力しようと決意する。しかしそれは、古くからの因習と伝統で凝り固まった豪族たちの、理不尽な怒りと直面しなければならないということでもあった。

II.

この物語、ロマンチックな外見を持ちながら、実は結構難易度が高く、観ていてしょっちゅう戸惑うことになってしまった。難易度、というのはインド知識度のことだ。オレも割とインド映画をこなしたつもりだったが、この作品で描かれるインドの風習についての幾つもの描写が、初めて目にするようなものばかりだったのだ。それは作品テーマである「インドにおける未亡人の立場」というものを、映画で殆ど触れたことなかった(アミターブの『Silsila』(1981)ぐらいか?)というのもある。この作品で描かれたのは、まず未亡人となったヒロインのところに老婦人の集団(そもそもこれがなんなのかすら分からないのだが)がやってきて「寡婦の掟」なるものを守らせようとすることだ。それは、髪を切り、頭を丸めることなのだという。この頭を丸めるというのも、つんつるてんなのか短髪にすることなのなのかも分からないのだが、とりあえず髪を切れという。この風習自体知らなかったが、それに対し、ヒロインは泣いて抵抗する。ここでまた戸惑ったのは、「インド女性が(長い)髪を切る」ということに対する心理的抵抗というのは、単にお洒落とかいう以上のもっと重要な理由があるのだ、ということが理解できていない、ということだ。寡婦は靴を履いてはいけない(スリッパすらいけない)というのも、初めて目にした。ヒロイン・マノラマは他にも、堅く薄い布団で寝なければならず、食事も粗食でなければならなかった。この極端すぎる「寡婦差別」というのはいったい何なのだろう?

オレなりにザックリ(ホントにザックリです)調べたところ、これらの根底になるのはかの「マヌ法典」なのだという。「これでインディア/3月14日(水)Water」では「ヒンドゥー教徒の日常生活の規範を規定したマヌ法典では、未亡人は不吉な存在とされ、未亡人になった瞬間からこの世のあらゆる快楽から切り離された生活を送らなければならないことが規定されている」「また、マヌ法典では未亡人の再婚が固く禁じられている。未亡人の救済の道はただ2つ、夫の死と共に焼身自殺(サティー)するか、夫の弟と結婚するかである」という記載があった。映画の中で登場した先程の「老婦人の集団」は、ここで書かれていた「ヴィドヴァーシュラム(未亡人の集住所)」と関係があるのかもしれない。いずれにしろ、インドにおいて未亡人というのは、忌むべきものであり、人として最低限の生き方しか許されない存在なのだということなのだ。映画の中でヒロイン・マノラマは、ただ町を歩いているだけで「未亡人を見ちまったよ!」と心無い人々に罵倒される(もちろんこれは1982年に公開された映画での描写であり、現在は特に都市部においてはもっと違ってきているのだろう。一方、地方ともなると、まだこういった因襲が残ったままなのかもしれないが、その辺はオレには分からない)。さらにマノラマは義兄からレイプまでされてしまう。家庭内性暴行というのもおぞましい話だが、この物語はそこまで徹底的に描くことによって、女性が直面する恐るべき窮状を暴き出そうとしているのだ。

III.

インドにおける女性差別というのはよくニュースで目にするし、インドという国はそういった問題を抱えている国でもあるのだろうな、と、これもあまりインドを知らない人間としてザックリな感想を持っていたのだけれども、同時にインドは、不可解なことにそんな女性を高く崇め、強い尊敬の念で扱う部分もあるのだ。そもそもインドの映画は「愛」を基本としたある意味女性的な側面を大いに持っているではないか。この辺のアンビバレンツがさらにインドという国を分かり難くしている。だがこれもかの「マヌ法典」に記述があるらしいのだ。「トーキング・マイノリティ/マヌ法典 その四」ではマヌ法典第3章においては「「家長の生き方」では妻に対する敬いを説いている」とあり、そこからの引用が記されているが、これが徹底的な女性(妻)賛美なのだ。「マヌ法典」記述におけるこういった矛盾は、個々の部分を抜き出して参照するのではなく全体の構造から推し量らねばなら無いものなのだろうから、これをして「矛盾」と言い切ってしまうのは浅はかな意見なのだろう。ただどちらにしろ、少なくとも「女性敬うべし」という箴言も、インドにはあることはあるということなのだ。

こうした「女性への敬愛」をどこまでも貫くのが主人公ディヴダーである。彼は不条理に過ぎる古い因習も伝統も全て否定する。なぜなら「一人の女が不幸になることによって安寧が保たれるコミュニティ」など間違っており、それは「自然なことではない」からだ。彼は言うなればインドにおける理想主義の象徴であり、未来の正しいインドを代表する存在なのだ。監督ラージ・カプールはこれまでも理想主義的な作品を撮り続けてきた。それは貧困との戦いであり貧富の差との戦いであった。そしてこの『Prem Rog』においてラージ・カプールは遂に因襲との戦いを描き出す。それは同時に、【愛の為の戦い】である。これは修辞的な表現ではなく、愛を貫き通そうとするディヴダーと、因習を固守せんとする村の有力者たちとの間で、本当に凄まじい戦闘が開始されるのだ。いやしかしまさかここまで描いてしまうとは思わなかった。それは監督ラージ・カプールが、ここまで熾烈に描き出さなければ、インドにおいて幾世代も続く不条理な悪弊を叩き潰すことなどできない、という強固な想いを持っていたからこそなのだろう。表層として恋愛ドラマの構造を持ちながらも、映画『Prem Rog』は実は凄まじい変革への意志がこめられた作品だったのだ。畢生の傑作である。

◎参考:『マヌ法典―ヒンドゥー教世界の原型』を読んだ - メモリの藻屑、記憶領域のゴミ