Peepli [Live] (監督:アヌシャー・リズヴィ 2010年インド映画)
『Peepli [Live]』はインドの貧困農村を舞台に繰り広げられるブラックな社会派風刺劇だ。タイトルの「Peepli」は舞台である「ピープリー村」のこと。また、製作をアーミル・カーンプロダクションが手掛けている。
主人公はピープリー村に住む貧乏こじらせまくった水呑み百姓ナッター(オームカル)。ナッターは憂鬱だった。銀行に借金を返せず、土地を売り飛ばさなければならなくなってしまったのだ。しかし家には年老いた母と兄、そして嫁と3人の子供たちがいる。土地を売ってはもう生計を立てることも出来ない。そんな折、ナッターは政府が貧困農家救済と称して、借金苦で自殺した農民には遺族に多額の見舞金を出すという事を知り、自殺を公言する。そんなナッターを地元の記者が新聞に取り上げたところ大騒ぎ。「こんな社会でいいのでしょうか!?」群がるTV局と目立ちたがり屋の政治家、警備にあたる警察官。さらには物売りやら移動遊園地まで現われ、ピープリー村はお祭り状態に!?でも、ナッターを助けの手を差し伸べる人は誰もいなかった…。
踊り無し、歌もほんのちょっと(「貧乏節」みたいな歌)、104分というタイトな上映時間、主演はどこにでもいそうな地味なおじさん、他の登場人物もまとめてしょっぱい方たちばかり、もちろんヒラヒラサリーのグラマー女優の登場は無し、そして描かれるのは埃まみれの寂しい農村、というインド映画らしからぬ挑戦的な低予算映画である。「自殺農夫への見舞金」というのはあくまでフィクションだろうが、それを中心としてシニカルなドラマが展開してゆく。「自殺して金を手に入れるしかない」と苦渋の決断をした男を相手に、砂糖に群がる蟻の如くマスコミがわらわらと群がり、他局に負けじと報道合戦、政治家たちは選挙利用の為にTVカメラの前で鷹揚に演説をぶち、人が集まる場所は金になるからと屋台がピープリー村に並び立つ。しかしこの狂乱の中で、誰一人として貧困にあえぐナッターを助けるわけでもなく、自殺を止めようとすらしないのだ。この寒々しい不条理感。
物語の中心となるのは困窮するインド農村の実情というよりも、目的化したセンショーナリズムに踊るマスメディアの愚昧な姿だ。そして利己的な政治家と事なかれ主義の政治だ。報道の為とナッター一家にまるでプライヴェートなど与えず、しまいにはこっそり外で用をたそうとしたナッターをカメラで追いかけ、その「用をたした跡」を物々しい口調で報道してしまう。政治家たちはピープリー村で使うことができないポンプや、電気の無いナッター家にTVを贈呈し、勝手に鼻高々になっている。そんなTVクルーの中に『Gangs of Wasseypur』『めぐりあわせのお弁当』のナワーズッディーン・シッディーキーの顏があったのがちょっと嬉しかった。物語はこうしたドタバタを醒めた視点で淡々と描き、誇張や作為的な笑い、突拍子もない展開を入れることなく、生真面目なほど正攻法で描いている。そういった部分で意外性が少なく、娯楽作として観るには難があるが、シニカルで批評的な寓話として楽しむことはできるだろう。
そしてこんな騒ぎの中、主人公ナッターはいつも途方に暮れた顔をして画面の中に佇む。このナッター、インドの佐藤蛾次郎とでも言いたくなるような、失礼ながら不細工なおっさんで、なんともいえないペーソスを醸し出している。そのナッターを取り巻く家族の面々も、どうにも残念な雰囲気が出ていて香ばしい。寝たきりのくせしてやたら喧しい婆さん、ひたすらガミガミうるさいだけの嫁、存在感希薄な兄。ただし子供たちだけは貧乏などおかまいなく元気。兄以外の家族は、「ナッターの自殺宣言」を知ってか知らずか、まともに受け止めることもせず、困窮するナッターをほっぽらかしだ。どうにもショボショボなこの家族の情景に、オレは根本敬の特殊マンガに出てくる「村田藤吉一家」を思い出してしまった。ある意味この『Peepli [Live] 』、サディスティックな現実にただただ頭を垂れ、なすすべもなく耐え忍ぶ村田藤吉を描く連作短編、『生きる』のインド版なのかもしれない。