インド映画を巡る冒険(仮)

以前メインのブログに書いたインド映画記事のアーカイヴです。当時書いたまま直さず転載しておりますので、誤記等ありましてもご容赦ください。

御者と踊り子との淡い恋〜映画『Teesri Kasam』

■Teesri Kasam (監督:バス・バッタチャリヤ 1966年インド映画)


1966年にインドで公開された『Teesri Kasam』は一人の御者と踊り子との淡い恋を描いた作品だ。主演にラージ・カプール、ヒロインにワヒーダ・レーマン。タイトルの意味は「三つの誓い」といったものらしい。

《物語》牛車の御者を生業とするヒラマン(ラージ)は、闇市の品物、竹材と、どれも厄介事ばかり起こす荷物に辟易していた。もうこんなものは二度と積まない…そう心に誓うヒラマンの次の荷物は女性客だ。うへえ、まさか女怪じゃあるまいな?だがその女性ヒラバイ(ワヒーダ)はとても気さくな上魅力的な女性で、ヒラマンは密かに心ときめかす。ヒラバイは踊り子だった。彼女を巡業先のテントで下したヒラマンは、彼女の踊りを愛おしそうに見ていた。だが、土地の有力者もまたヒラバイの踊りに魅せられ、彼女を強引に自分のものにしようとしていた。

奇妙な懐かしさを覚える物語だった。インドには縁もゆかりもない自分が、どうして60年代のインドの田舎に懐かしさを覚えてしまうのだろう?それは広々とした自然や、貧しくともおおらかに生きる人々や、それらののんびりした時間感覚にあったかもしれない。それと併せ、主人公ヒラマンの朴訥で純情な田舎者ぶりに、どうにもこそばゆい共感を覚えたからかもしれない。なんというかこう、心に和むものを感じる作品なのだ。どこか「日本昔話」に出てくる村のお百姓さんを見ているような気分にさせられたのだ。

とはいえ、物語は決してほのぼのした昔話風というものではない。ヒロインであるヒラバイは、踊り子であることから陰で娼婦呼ばわりされ、土地の有力者からは金さえ積めばどうとでもなる女だと目されてしまう。この作品にはこうした女性蔑視への批判も盛り込まれる。ヒラバイ自身はいつものことと無視するが、ヒラマンにはそれが許せない。騒ぎを起こしヒラバイに迷惑をかけ、いさめられると不貞腐れる。しかしヒラバイはそんなヒラマンの純な心に癒される。ヒラバイはいわば「成熟した大人の女」であり、ヒラマンの思うような「可憐な乙女」ではなかったけれども、彼の無心な一途さに心洗われていたのだ。

しかしドラマは決してロマンスの成就へ向かおうとはしない。所詮純朴な田舎者と世知に長け芸事に秀でた踊り子では釣り合わないのだ。夢の如き愛の妄想の後につきつけられる現実の味はどこまでも苦い。こうした「寸止めのロマンス」がこの作品を奇妙に切なく、そして非凡なものにしている。この展開を観て何かに似ているなあ、と思ったら日本が誇る人情喜劇『男はつらいよ』だった。主人公寅次郎は美しいヒロインに恋しながら常にそれは成就しない。それはヒロインが、寅次郎を愛しつつ住む世界の違いを如実に感じていたからなのだろう。こうして物語はインド版『男はつらいよ』とも呼ぶべきペーソスに溢れた展開を見せてゆく。

主演のラージ・カプールはそんな、朴訥でおっちょこちょいな「インド版寅さん」を哀歓たっぷりに演じ、ひょっとしたら彼のベスト・アクトのひとつかもしれない(まあそんなに沢山ラージ・カプール主演映画観て無いんだけどね)。ちょっと太り過ぎている部分はあんまり「貧しい村人」っぽくは見られないんだが。そしてヒロインのワヒーダ・レーマン、踊り子が主演の作品ということもあって、舞台で演じられる彼女の歌と踊りのシーンは、本当にどれも美しく楽しいものだった。ああそうだ、この時代のインドのサウンドトラックの、チャカポコしたリズムと旋律が、なんだか日本の祭囃子と似てなくもなくて、それでオレはなんだか懐かしい、と思ってしまったのかなあ。モノクロのクラシック作品ではあるが奇妙に記憶に残り愛着の湧く一作だった。