インド映画を巡る冒険(仮)

以前メインのブログに書いたインド映画記事のアーカイヴです。当時書いたまま直さず転載しておりますので、誤記等ありましてもご容赦ください。

聖なるガンジスと神話、エロティシズムと暴力〜映画『Ram Teri Ganga Maili』【ラージ・カプール監督週間】

■Ram Teri Ganga Maili (監督:ラージ・カプール 1985年インド映画)

■聖なる河ガンジスを題に採った作品

ガンジス河はヒンドゥー教徒にとって聖なる河である。このガンジス河=ガンガーを題に採って物語られるのが1985年に公開されたラージ・カプール最後の監督作品『Ram Teri Ganga Maili』だ。主演はラージ・カプールの息子ラジブ・カプール、ヒロインにマンダキーニ。

《物語》主人公はカルカッタに住む青年ナレンドラ(ラジブ・カプール)。彼は祖母の為に聖なるガンジス河の清い水を採ろうと、ガンジス源流のある聖地ガンゴートリーへ訪れる(ちなみに実際の源流はさらに山に入ったゴームク)。ここでナレンドラは美しい娘ガンガー(マンダキーニ)と出会い、愛し合うようになる。やがて二人は結婚を誓い一夜を共にするが、ナレンドラはカルカッタに一時帰郷することになる。しかし郷里に着いたナレンドラは家族から強引に他の娘と婚約させられ、逃亡を図ったナレンドラは今度は家に監禁されてしまう。一方ガンガーはナレンドラの子を産むものの、待てど暮らせど帰らないナレンドラに会うためカルカッタへと向かう。だが彼女は道中何度も危険な目に遭い、遂にバナーラスの町で踊り子の館に軟禁されてしまう。

■物語背後にある神話テーマ

タイトルの意味は「ラーマよ、あなたのガンガーが汚される」といったものだが、このラーマはインド叙事詩ラーマヤーナに登場し、ビシュヌの化身とされるラーマ王子のことであり、同時に主人公も指すのだろう。ガンガーはガンジス河を神格化した女神であると同時に、この物語のヒロインの名でもある。ラーマヤーナではラーマ王子の妻シータがさらわれ、そこで不貞があったのではという疑惑が持ち上がるが、それと重ね合わされているのかもしれない。この物語でもヒロインは性的に危険な目に何度も遭うのだ。主人公の名前ナレンドラは「神に似た人」といった意味らしいが、これに女神ガンガーと同じ名前のヒロイン・ガンガーが絡むわけだから、ザックリと神様同士のカップルと言ってもいいわけで、これは当然神話的な意味合いを持たせようとしているのだろう。

この物語はさらに、サンスクリット劇最大の傑作と言われる戯曲『シャクンタラー姫』をも題材にしている。インドには疎いオレだが、この『シャクンタラー姫』だけは読んだことがあるのをちょっとだけ自慢させてほしい(レヴュー:インドの事をあれこれ勉強してみた - メモリの藻屑、記憶領域のゴミ)。『シャクンタラー姫』は仙人の隠棲所で出会ったドウフシャンタ王と天女の血筋を持つシャクンタラー姫との恋愛ドラマである。相思相愛となり周囲からも祝福され婚姻の目前にあった二人はしかし、とある仙人の呪いによりその想いを成就することができなくなる。やがてシャクンタラー姫はドウフシャンタ王の子を産み、子を連れて王都へと向かう。こういった骨子はまさにこの映画そのものである。さらにこの映画においてナレンドラとガンガーは村独特の風習によって婚姻を結ぶが、これは『シャクンタラー姫』において主人公カップルが結ばれる"ガンダルヴァ婚(結婚の儀式を経ないで性的関係によって成立する結婚)"と非常に良く似ている。

■物議を醸した乳房シーン

とはいえ、「神話を題に採った物語」というなにやら高尚な趣のある作品に見せながら、実はこの物語、相当に大衆的な、ある意味下世話とも言えるエピソードの盛り込み方をしており、当時でも相当物議を醸したらしい。なによりこの作品、ヒロイン演じるマンダキーニが劇中何度かその豊満な乳房を披露するのだ。まずヒロインが滝で沐浴するシーンだ。ここで水に濡れた薄物の衣装から彼女の乳房がありありと透けて見える演出が施される。↑の写真を見て貰えば一目瞭然だろう。次は子供に授乳するシーンでやはり乳房が露わになる。

「Ram Teri Ganga Maili」で画像検索するとヒロインの乳房シーンばかり出て来る。この作品の関心度がどの辺にあるのか伺えるというものだろう。2016年に公開されたインド映画『カプール家の家族写真(Kapoor & Sons (since 1921))』に登場するお爺ちゃんが青春の思い出として後生大事にしていた女優の等身大ポップアップが実はこの映画のヒロインの乳房シーン写真だったりするのだ。日本だったらアグネス・ラムって所なのかな?

こういった煽情はナレンドラとの川での逢瀬を描くシーンでも現れる。鼻と足が冷たいというナレンドラの鼻にガンガーは口づけし、足をさする。女性が男性の足を触るというのは婚姻したもの同士の行為であるらしく、ここで主人公がときめきを覚える、といった具合だ。

さらに結婚を誓った二人が床を共にするシーンも、口づけや愛撫を経て衣服を脱がし始めるといった様子を克明に描き十分にエロティックだ。しかし村のヒロイン・ガンガーを奪われ怒り心頭に達した村男たちが、二人の夜伽を襲おうと迫りくるのだが、これにガンガーの兄が応酬する。この部分の描写がなにしろ凄くて、頭に血の上った村男たちとガンガーの兄が血塗れの戦いを繰り広げる、といったシーンと、カップル二人のアハンウフンなシーンが交互に描かれるのだ。ここではエロと暴力が代わる代わる画面に登場し、異様な効果を上げている。

■エロティシズムと暴力

後半は乳飲み子を連れカルカッタを目指すガンガーが、地獄巡りともいえる恐ろしい体験を経てゆく様子が描かれる。一方のナレンドラは逃亡するも連れ戻され、自宅でしょんぼり望まぬ結婚を待っているだけというからある意味対称的過ぎる。ガンガーはバスの途中駅で降りたところを親切を装った女に汚い赤線地帯に連れ込まれ、客を取らされそうになって逃げ出す。その後も汽車の途中駅で放り出され、やはり親切を装った男に娼館に軟禁され、歌い手としての生活を余儀なくされる。クライマックスは内容には触れないがやはり暴力的だ。さらにこの作品、冒頭でガンジス河の河辺に転がる本物の死体や河を流れる本物の死体が画面に登場して度肝を抜かされる。

これらエロティシズムと暴力は、実は後期ラージ・カプール映画の二本柱とも言えるものだ。『Mera Naam Joker』(1970)では既に主演女優のヌードシーンが登場していたし、『Bobby』(1973)でもヌードこそ出ないが主演女優の露出度の高さと後半の暴力が目を引いた。『Satyam Shivam Sundaram』(1978)と『Prem Rog』(1982)は暴力の嵐だった。暴力描写自体は初期の頃から存在していたが、それでもまだ文芸路線を保とうとしていた。この文芸路線の初期からエロティシズムと暴力の後期への転換は、徹底した商業映画監督への転換ということなのだろう。しかもただ単に商業映画監督なのではなく、非常に野心的な試みをインド映画界で成そうとしていたように思う。

自分がラージ・カプール作品を面白いと思い、その監督作品全てを観てみようと思ったのは、彼の芸術性や社会的テーマの在り方と、それと裏腹な見世物に特化した映画の描き方にあった。凡百の映画監督はそのどちらかで終わってしまう所を、ラージ・カプールはその両方をやってのけている。この『Ram Teri Ganga Maili』でも「聖なる河ガンジス」を謳いながらそこを流れる死体を見せ、神話に基づく物語とうそぶきながらエロと暴力に走る。聖と俗が混沌とあり、美と醜がない交ぜになり、清と濁が併せ呑まれる。これは、インドそのものではないか。インド映画を観始めてこうしてラージ・カプールに辿り着いたことを自分はとても嬉しく思えるし、同時にインド映画の奥深さをまたしても思い知らされた気持ちだ。
ラージ・カプールは晩年喘息に苦しみ、この作品が公開された3年後、1988年に喘息の合併症により68歳で死亡している。

シャクンタラー姫 (岩波文庫 赤 64-1)

シャクンタラー姫 (岩波文庫 赤 64-1)