■Mohenjo Daro (監督:アーシュトーシュ・ゴーワリカル 2016年インド映画)
モヘンジョダロである。2016年公開のインド映画『Mohenjo Daro』は失われた謎の古代都市モヘンジョダロを舞台にした作品なのである。モヘンジョダロ。紀元前2500年から紀元前1800年にかけ繁栄し、最大で4万人近くが居住していたと推測されたインダス文明最大級の都市遺跡だ(はいこの辺Wikipediaのコピペ)。これは気宇壮大な歴史絵巻になりそうじゃないか。そして主演がリティク・ローシャン。2014年公開の『Bang Bang!』以来ボリウッド映画ではご無沙汰だったが、やっとその色男ぶりとシックスパックを拝めるのかと思うと楽しみだ。そして監督が『ラガーン』(2001)のアーシュトーシュ・ゴーワリカルときた。そう、『ラガーン』はオレのこれまで観たインド映画の中でも1、2を争う名作中の名作だったな。ただしあの『Swades』(2004)と『Jodhaa Akbar』(2008)の監督でもあるのが相当な不安要素なんだよな……。
《物語》紀元前2016年。小さな農村で暮らす青年サルマーン(リティク・ローシャン)は噂に名高い大都市モヘンジョダロへ遂に足を踏み入れることになる。これまで観たことも無いほどの沢山の人々、無数に立ち並ぶ煉瓦作りの建物、物珍しい交易品、それらはどれもサルマーンの目を奪うものばかりだった。さらに神官の娘チャーニー(プージャー・ヘーグデー)の美しさに心奪われたサルマーンは、とある事件をきっかけにチャーニーの信頼を得るまでになった。しかしチャーニーはモヘンジョダロ首長の息子ムーンジャー(アルノーダイ・シン)の許婚だった。しかも首長であるマハム(カビール・ベーディー)は私利私欲から強権的な政策を敷き、権力の為に暗殺まで行うばかりか、モヘンジョダロを危機に陥れる悪辣な企みを働かせていたのだ。そんなマハルとムーンジャーの奸計に怒りを爆発させるサルマーンだったが、大立ち回りも空しく捕えられ、死の闘技場に送られることになるのだ。
う〜む。最初に書くと、鑑賞前に抱いていた不安が的中し、どうにもグダグダの作品ではあった。監督のアーシュトーシュ・ゴーワリカル、確かに『ラガーン』はインド映画史に残る名作中の名作だったが、その後の『Swades』はシャー・ルク・カーン主演ながら箸にも棒にも掛からぬ凡作で、さらに割と評判のいい『Jodhaa Akbar』ですらオレにはたまらなく退屈だった。この『Jodhaa Akbar』、6世紀のムガル帝国を舞台にした作品で、歴史大作である部分やリティク・ローシャン主演である部分などがこの『Mohenjo Daro』と被っているのだが、『Jodhaa Akbar』に感じた不満と全く同じ不満をこの『Mohenjo Daro』にも感じてしまった。仮にも悠久の歴史の中に存在した栄華を誇る一つの文明なり国家を描きながら、お花畑な恋愛ドラマに矮小化してしまっている部分や、歴史ドラマに求められるであろう壮大さが、ちゃちいセットと少ないモブで貧相極まりないものになっている部分や、そこで描かれる戦闘シーンが、まるでやる気の無い適当さで描かれている部分などが全く一緒だ。
何よりも、本来の主役である筈の都市モヘンジョダロと、そこに暮らす人々の風俗に、なんのリアリティもイマジネーションも感じなかったということだ。確かに、モヘンジョダロはいまだにその全貌が判明しない謎の都市である。残された文字が解読できないばかりに、どのような人々が住みどのような暮らしを送っていたのかほとんど解明されていないのだ。だからその歴史的考証といっても不可能なものが多かったことは十分理解できる。だからこそ映画の冒頭では「(よく分かってないので)自由に作らせてもらってるから」という但し書きが流れる。それでも、映画を観終った後に調べると、この作品はアメリカの大学を含めた幾人もの学術研究者の協力を仰ぎ、残されたモヘンジョダロの遺物から様々なものをできるだけ正確に再現しようとしていたことが伺える。例えば映画の街並みのパースは実際の遺跡通りだというし、古代文明に多く見られる神権政治を描くことをしていない部分、強権的な支配者は描かれるが、強大な権力を示す建造物が存在しない部分、これらは現在の研究内容と一致しているのだ。「自由に作っている」ように見えて、最大限の考証は行われているのだ。しかし、それだけでは結局駄目なのだ。
なぜならこれは科学ドキュメンタリーではなく映画でありドラマであるからだ。だから考証を無視してでも、どれだけ嘘をつけるのか、驚く様なものを観客に見せられるのかが映画というフィクション本来の楽しさなのではないか。しかし、まさに監督の腕の見せ所である筈の美術や物語にまるで目新しさも魅力も感じない。描かれる美術も衣装も習俗もどうにも想像力貧困な作りもの臭いものばかりで、「この映画、サンジャイ・リーラー・バンサーリに監督させろよ」と何度思ったことか。その物語も「田舎から大都会に出てきた青年が身分違いの恋をして土地の権力者にどやされるがそれを乗り越えてゆく」というあまりにもありきたりのもので、まあ歴史絵巻ですらロマンス中心というのもインド映画らしくはあるが、それでは何のために舞台をモヘンジョダロにしたのか必然性をまるで感じなくなってしまう。異質な世界、異質な時代、異質な文化をテーマにしながら、その異質さを際立たせることなど全くせず、描かれるのはお馴染みの遣り尽された物語なのだ。意欲は分かるが凡作、怪作の部類の作品だろう。