インド映画を巡る冒険(仮)

以前メインのブログに書いたインド映画記事のアーカイヴです。当時書いたまま直さず転載しておりますので、誤記等ありましてもご容赦ください。

御者と踊り子との淡い恋〜映画『Teesri Kasam』

■Teesri Kasam (監督:バス・バッタチャリヤ 1966年インド映画)


1966年にインドで公開された『Teesri Kasam』は一人の御者と踊り子との淡い恋を描いた作品だ。主演にラージ・カプール、ヒロインにワヒーダ・レーマン。タイトルの意味は「三つの誓い」といったものらしい。

《物語》牛車の御者を生業とするヒラマン(ラージ)は、闇市の品物、竹材と、どれも厄介事ばかり起こす荷物に辟易していた。もうこんなものは二度と積まない…そう心に誓うヒラマンの次の荷物は女性客だ。うへえ、まさか女怪じゃあるまいな?だがその女性ヒラバイ(ワヒーダ)はとても気さくな上魅力的な女性で、ヒラマンは密かに心ときめかす。ヒラバイは踊り子だった。彼女を巡業先のテントで下したヒラマンは、彼女の踊りを愛おしそうに見ていた。だが、土地の有力者もまたヒラバイの踊りに魅せられ、彼女を強引に自分のものにしようとしていた。

奇妙な懐かしさを覚える物語だった。インドには縁もゆかりもない自分が、どうして60年代のインドの田舎に懐かしさを覚えてしまうのだろう?それは広々とした自然や、貧しくともおおらかに生きる人々や、それらののんびりした時間感覚にあったかもしれない。それと併せ、主人公ヒラマンの朴訥で純情な田舎者ぶりに、どうにもこそばゆい共感を覚えたからかもしれない。なんというかこう、心に和むものを感じる作品なのだ。どこか「日本昔話」に出てくる村のお百姓さんを見ているような気分にさせられたのだ。

とはいえ、物語は決してほのぼのした昔話風というものではない。ヒロインであるヒラバイは、踊り子であることから陰で娼婦呼ばわりされ、土地の有力者からは金さえ積めばどうとでもなる女だと目されてしまう。この作品にはこうした女性蔑視への批判も盛り込まれる。ヒラバイ自身はいつものことと無視するが、ヒラマンにはそれが許せない。騒ぎを起こしヒラバイに迷惑をかけ、いさめられると不貞腐れる。しかしヒラバイはそんなヒラマンの純な心に癒される。ヒラバイはいわば「成熟した大人の女」であり、ヒラマンの思うような「可憐な乙女」ではなかったけれども、彼の無心な一途さに心洗われていたのだ。

しかしドラマは決してロマンスの成就へ向かおうとはしない。所詮純朴な田舎者と世知に長け芸事に秀でた踊り子では釣り合わないのだ。夢の如き愛の妄想の後につきつけられる現実の味はどこまでも苦い。こうした「寸止めのロマンス」がこの作品を奇妙に切なく、そして非凡なものにしている。この展開を観て何かに似ているなあ、と思ったら日本が誇る人情喜劇『男はつらいよ』だった。主人公寅次郎は美しいヒロインに恋しながら常にそれは成就しない。それはヒロインが、寅次郎を愛しつつ住む世界の違いを如実に感じていたからなのだろう。こうして物語はインド版『男はつらいよ』とも呼ぶべきペーソスに溢れた展開を見せてゆく。

主演のラージ・カプールはそんな、朴訥でおっちょこちょいな「インド版寅さん」を哀歓たっぷりに演じ、ひょっとしたら彼のベスト・アクトのひとつかもしれない(まあそんなに沢山ラージ・カプール主演映画観て無いんだけどね)。ちょっと太り過ぎている部分はあんまり「貧しい村人」っぽくは見られないんだが。そしてヒロインのワヒーダ・レーマン、踊り子が主演の作品ということもあって、舞台で演じられる彼女の歌と踊りのシーンは、本当にどれも美しく楽しいものだった。ああそうだ、この時代のインドのサウンドトラックの、チャカポコしたリズムと旋律が、なんだか日本の祭囃子と似てなくもなくて、それでオレはなんだか懐かしい、と思ってしまったのかなあ。モノクロのクラシック作品ではあるが奇妙に記憶に残り愛着の湧く一作だった。

聖なるガンジスと神話、エロティシズムと暴力〜映画『Ram Teri Ganga Maili』【ラージ・カプール監督週間】

■Ram Teri Ganga Maili (監督:ラージ・カプール 1985年インド映画)

■聖なる河ガンジスを題に採った作品

ガンジス河はヒンドゥー教徒にとって聖なる河である。このガンジス河=ガンガーを題に採って物語られるのが1985年に公開されたラージ・カプール最後の監督作品『Ram Teri Ganga Maili』だ。主演はラージ・カプールの息子ラジブ・カプール、ヒロインにマンダキーニ。

《物語》主人公はカルカッタに住む青年ナレンドラ(ラジブ・カプール)。彼は祖母の為に聖なるガンジス河の清い水を採ろうと、ガンジス源流のある聖地ガンゴートリーへ訪れる(ちなみに実際の源流はさらに山に入ったゴームク)。ここでナレンドラは美しい娘ガンガー(マンダキーニ)と出会い、愛し合うようになる。やがて二人は結婚を誓い一夜を共にするが、ナレンドラはカルカッタに一時帰郷することになる。しかし郷里に着いたナレンドラは家族から強引に他の娘と婚約させられ、逃亡を図ったナレンドラは今度は家に監禁されてしまう。一方ガンガーはナレンドラの子を産むものの、待てど暮らせど帰らないナレンドラに会うためカルカッタへと向かう。だが彼女は道中何度も危険な目に遭い、遂にバナーラスの町で踊り子の館に軟禁されてしまう。

■物語背後にある神話テーマ

タイトルの意味は「ラーマよ、あなたのガンガーが汚される」といったものだが、このラーマはインド叙事詩ラーマヤーナに登場し、ビシュヌの化身とされるラーマ王子のことであり、同時に主人公も指すのだろう。ガンガーはガンジス河を神格化した女神であると同時に、この物語のヒロインの名でもある。ラーマヤーナではラーマ王子の妻シータがさらわれ、そこで不貞があったのではという疑惑が持ち上がるが、それと重ね合わされているのかもしれない。この物語でもヒロインは性的に危険な目に何度も遭うのだ。主人公の名前ナレンドラは「神に似た人」といった意味らしいが、これに女神ガンガーと同じ名前のヒロイン・ガンガーが絡むわけだから、ザックリと神様同士のカップルと言ってもいいわけで、これは当然神話的な意味合いを持たせようとしているのだろう。

この物語はさらに、サンスクリット劇最大の傑作と言われる戯曲『シャクンタラー姫』をも題材にしている。インドには疎いオレだが、この『シャクンタラー姫』だけは読んだことがあるのをちょっとだけ自慢させてほしい(レヴュー:インドの事をあれこれ勉強してみた - メモリの藻屑、記憶領域のゴミ)。『シャクンタラー姫』は仙人の隠棲所で出会ったドウフシャンタ王と天女の血筋を持つシャクンタラー姫との恋愛ドラマである。相思相愛となり周囲からも祝福され婚姻の目前にあった二人はしかし、とある仙人の呪いによりその想いを成就することができなくなる。やがてシャクンタラー姫はドウフシャンタ王の子を産み、子を連れて王都へと向かう。こういった骨子はまさにこの映画そのものである。さらにこの映画においてナレンドラとガンガーは村独特の風習によって婚姻を結ぶが、これは『シャクンタラー姫』において主人公カップルが結ばれる"ガンダルヴァ婚(結婚の儀式を経ないで性的関係によって成立する結婚)"と非常に良く似ている。

■物議を醸した乳房シーン

とはいえ、「神話を題に採った物語」というなにやら高尚な趣のある作品に見せながら、実はこの物語、相当に大衆的な、ある意味下世話とも言えるエピソードの盛り込み方をしており、当時でも相当物議を醸したらしい。なによりこの作品、ヒロイン演じるマンダキーニが劇中何度かその豊満な乳房を披露するのだ。まずヒロインが滝で沐浴するシーンだ。ここで水に濡れた薄物の衣装から彼女の乳房がありありと透けて見える演出が施される。↑の写真を見て貰えば一目瞭然だろう。次は子供に授乳するシーンでやはり乳房が露わになる。

「Ram Teri Ganga Maili」で画像検索するとヒロインの乳房シーンばかり出て来る。この作品の関心度がどの辺にあるのか伺えるというものだろう。2016年に公開されたインド映画『カプール家の家族写真(Kapoor & Sons (since 1921))』に登場するお爺ちゃんが青春の思い出として後生大事にしていた女優の等身大ポップアップが実はこの映画のヒロインの乳房シーン写真だったりするのだ。日本だったらアグネス・ラムって所なのかな?

こういった煽情はナレンドラとの川での逢瀬を描くシーンでも現れる。鼻と足が冷たいというナレンドラの鼻にガンガーは口づけし、足をさする。女性が男性の足を触るというのは婚姻したもの同士の行為であるらしく、ここで主人公がときめきを覚える、といった具合だ。

さらに結婚を誓った二人が床を共にするシーンも、口づけや愛撫を経て衣服を脱がし始めるといった様子を克明に描き十分にエロティックだ。しかし村のヒロイン・ガンガーを奪われ怒り心頭に達した村男たちが、二人の夜伽を襲おうと迫りくるのだが、これにガンガーの兄が応酬する。この部分の描写がなにしろ凄くて、頭に血の上った村男たちとガンガーの兄が血塗れの戦いを繰り広げる、といったシーンと、カップル二人のアハンウフンなシーンが交互に描かれるのだ。ここではエロと暴力が代わる代わる画面に登場し、異様な効果を上げている。

■エロティシズムと暴力

後半は乳飲み子を連れカルカッタを目指すガンガーが、地獄巡りともいえる恐ろしい体験を経てゆく様子が描かれる。一方のナレンドラは逃亡するも連れ戻され、自宅でしょんぼり望まぬ結婚を待っているだけというからある意味対称的過ぎる。ガンガーはバスの途中駅で降りたところを親切を装った女に汚い赤線地帯に連れ込まれ、客を取らされそうになって逃げ出す。その後も汽車の途中駅で放り出され、やはり親切を装った男に娼館に軟禁され、歌い手としての生活を余儀なくされる。クライマックスは内容には触れないがやはり暴力的だ。さらにこの作品、冒頭でガンジス河の河辺に転がる本物の死体や河を流れる本物の死体が画面に登場して度肝を抜かされる。

これらエロティシズムと暴力は、実は後期ラージ・カプール映画の二本柱とも言えるものだ。『Mera Naam Joker』(1970)では既に主演女優のヌードシーンが登場していたし、『Bobby』(1973)でもヌードこそ出ないが主演女優の露出度の高さと後半の暴力が目を引いた。『Satyam Shivam Sundaram』(1978)と『Prem Rog』(1982)は暴力の嵐だった。暴力描写自体は初期の頃から存在していたが、それでもまだ文芸路線を保とうとしていた。この文芸路線の初期からエロティシズムと暴力の後期への転換は、徹底した商業映画監督への転換ということなのだろう。しかもただ単に商業映画監督なのではなく、非常に野心的な試みをインド映画界で成そうとしていたように思う。

自分がラージ・カプール作品を面白いと思い、その監督作品全てを観てみようと思ったのは、彼の芸術性や社会的テーマの在り方と、それと裏腹な見世物に特化した映画の描き方にあった。凡百の映画監督はそのどちらかで終わってしまう所を、ラージ・カプールはその両方をやってのけている。この『Ram Teri Ganga Maili』でも「聖なる河ガンジス」を謳いながらそこを流れる死体を見せ、神話に基づく物語とうそぶきながらエロと暴力に走る。聖と俗が混沌とあり、美と醜がない交ぜになり、清と濁が併せ呑まれる。これは、インドそのものではないか。インド映画を観始めてこうしてラージ・カプールに辿り着いたことを自分はとても嬉しく思えるし、同時にインド映画の奥深さをまたしても思い知らされた気持ちだ。
ラージ・カプールは晩年喘息に苦しみ、この作品が公開された3年後、1988年に喘息の合併症により68歳で死亡している。

シャクンタラー姫 (岩波文庫 赤 64-1)

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失われたミューズを追い続けるラージ・カプール初監督作〜映画『Aag』【ラージ・カプール監督週間】

■Aag (監督:ラージ・カプール 1948年インド映画)

■顏の焼けただれた男

それは新婚初夜のことである。ベッドの上で艶めかしく微笑みながら夫を待つ妻。寝室に夫が入ってきて妻に呼びかける。恥じらいに伏し目がちにしていた彼女はゆっくりと顔を上げる。だが夫の顔を見た彼女は絶叫を上げる。なんと夫の顏は、その半分が焼けただれていたのだ。相手の顔を見ることなく結婚が決まることもあるインドならではの悲劇なのだろう。そして怯えて泣きじゃくる妻に、夫はゆっくりと自らの哀しみに満ちた半生を、火傷のわけを語り始める…。

1948年、23歳のラージ・カプールが初監督した記念すべき作品『Aag』は、まるでハマー・フィルムのホラー作品を思わす猟奇的なオープニングから始まる。タイトル「Aag」の意味は「火」。それは主人公の顔を焼き尽くした火の事なのであろうか。彼の身に過去、いったい何が起こったのだろうか?

《物語》
主人公の名はケワル。彼は幼い頃(シャシ・カプール/子供時代)芝居に目覚め、友人を集めて素人舞台を立ち上げるほどだった。しかしその初演の日、ヒロインを務める筈だった少女ニンミが親の都合で突然町を去り、ケワルの最初の舞台は遂に演じられることはなかった。
それから10年後、学生となったケワル(ラージ・カプール)は再び演劇に挑む。その演目のヒロインに、ケワルはニンミと呼ばせてくれと頼み込み、それを承諾してもらう。ところがこの舞台もヒロインの降板で頓挫してしまう。
その後ケワルは父親と同じ弁護士になるため試験を受けるもこれが不合格。この時、ケワルは演劇の道に進むことを決意し、父の反対を押し切って家を飛び出す。だが世間の風は冷たく、失意のまま彷徨う彼は、ある劇場に入り込む。その劇場のオーナーである芸術家のラジャン(プレムナス)はケワルの窮状を知り、彼に舞台演出を任せてみる。
夢の叶ったケワルは劇を書きあげ、出演者のオーディションに挑む。そして彼の舞台のヒロインとして抜擢された女性(ナルギス)に、ケワルは再びニンミと名乗るよう懇願する。度重なる稽古の中で芸術家のラジャンはニンミを愛するようになる。しかしニンミが恋していたのはケワルだった。そしてその三角関係は遂に破局を迎えることになる。

■ラージ・カプールのエッセンスが詰まった初監督作

処女作にはその作者の全ての要素が詰まっているという言葉があるが、ラージ・カプールの初監督作品となるこの『Aag』にも、その後のカプール作品に表れるモチーフがふんだんに盛り込まれていることが発見できて非常に面白い。長々と粗筋を書いたのはその共通点を示唆するためだ。

まず「顔半分が焼けただれた男」だ。これは「顔半分が焼けただれた女」として1978年公開の映画『Satyam Shivam Sundaram』に登場する。そして「演劇を目指す男のヒロインが人生の節目節目に三度変わる」という物語の流れは、1970年公開の『Mera Naam Joker』において「道化師を目指す男の人生に登場する3人の女」に呼応する。さらに「一人の女性と友人との三角関係に至るが、主人公は友情を選ぶ」というモチーフは1964年公開の『Sangam』そのものだろう。こじつけを承知で書くなら「放逐された弁護士の息子」は1951年の『Awaara』になるか。ううむこれは無理矢理すぎるか。

もう一つはカプール監督の奇妙な猟奇趣味とその要因ともなる暴力だ。この『Aag』でいうなら「醜い火傷のある男」でありその火傷が出来た原因ということになる。娯楽映画に暴力的要素が盛り込まれるのは珍しくはないが、カプール作品においてそれは突発的であったり衝動的であったりするため驚かされるのだ。要するに物語内において「飛び道具」のように使われるのである。その最たる例が『Satyam Shivam Sundaram』だが、他にも『Barsaat』(1949)における監禁と暴力、『Sangam』(1964)の衝動性、『Bobby』(1973)の集団リンチ、『Prem Rog』(1982)の凄まじい銃撃戦、といった形で表れる。

これら猟奇と暴力は物語の中心的要素では全くないのだが、カプール監督の密かな趣味なのかそれともサービス精神なのか定かではないにせよ、なぜだか劇中に突発的に盛り込まれるのだ。どちらにしろ、様々なカプール作品を鑑賞した後に観るならば、この『Aag』は多くの発見があり楽しめるだろう。

■失われたミューズを乞い求める物語

映画内容それ自体で見るなら、初監督ということでまだ慣れていないせいか、前半は物語の核心へ繋げるための段取りに終始し、どこか作業的に物語られている部分が無きにしも非ずだ。そしてヒロインであるナルギスが中盤まで登場しないため、それまで主人公が右往左往するだけの華の無い物語が進んでしまう。しかしナルギス登場後はその艶やかさと歌と踊りの充実でようやく楽しめる作品になってくる。というかナルギスは本当にいい、いろいろな古典インド映画を観て本当によかったと思ったことのひとつはナルギスの素晴らしさと出会えたことだ。

この作品において主人公ケワルは最初に出会った少女ニンミの名前を二人目三人目の女性にも名乗らせようとする。日常的な恋愛感覚で考えてしまうとこれは異様なことではあるが、これにはどういった意味が隠されているのか。最初自分は「これはファム・ファタールを追い続ける男の物語なのだな」と思っていたのだが、しかしよく見てみるなら、ケワルにとって"ニンミ"は単なる恋人ではなく、常にケワルが演出する舞台のヒロインとして登場しているのだ。そこに恋愛感情が無かったとはいえないが、それよりもまず、"ニンミ"はケワルが劇作を生み出す想像力の核であったこと、すなわちミューズであったということなのだ。だからこそ、ミューズという核を失った劇はすぐさま頓挫することになるのだ。失われたミューズを乞い求め続けるこの物語は、つまりはケワルが自らの劇作の完全なる完成を乞い求め続ける物語であったということができる。いうなれば監督ラージ・カプールが、不安と葛藤の中、その初監督作品の成功を懇願しつつ悪戦苦闘と試行錯誤を繰り返す、その過程そのものがこの作品だったのではないか。

乞い求めるほどに離れていってしまうミューズの存在にケワルは苦悩し、遂にクライマックスにおいて「顏の火傷」の原因となった事件が起こってしまう。それだけだと暗澹たる物語として終焉するが、しかしこの物語にはある救済が用意される。そしてこれが素晴らしい。観終わって「ああ、こういう物語だったのか!」と叫んでしまったほどだ。このラストの構成によってラージ・カプールはその非凡さを大いに世に知らしめることになっただろう。このラストは、監督ラージ・カプールが遂に自らの作品の納得できる完成に辿り着いた瞬間をも表わしているのだろう。こう考えると、「顏の火傷」それ自体すら"名監督誕生"の"聖痕"であったともいえないだろうか。

対称的な二人の男の愛の結末〜映画『Barsaat』【ラージ・カプール監督週間】

■Barsaat (監督:ラージ・カプール 1949年インド映画)


ラージ・カプール主演・監督作品として1949年に公開された映画『Barsaat』は処女作『Aag』(1948)に続く監督第2作目となる。共演はナルギス、プレム・ナス、ニンミ。二組の対称的なカップルの愛の行方を描いた作品だが、後半で奇妙な乱調を見せるのが独特だと言えるかもしれない。タイトルの意味は「雨期」。なお今回は結末まで触れるのでご注意を。

物語の中心となるのは正反対の性格をした二人の男。一人は芸術家肌で気難しいプラン(ラージ・カプール)、もう一人はリアリストで享楽的なゴパル(プレム・ナス)。二人は都会からインドの田舎へ遊びに行くが、車が故障し近くの村で数日過ごすことにする。その間、プランは村の娘レシュマ(ナルギス)と出会い恋をし、結婚まで考えるようになるが、レシュマの父は決してそれを許さず、会うことすら禁止した。一方ゴパルはニーラ(ニンミ)という娘と出会う。ニーラは心の底からゴパルを愛したが、ゴパルにとってそれは行きずり恋のつもりだった。そしてそれぞれのカップルに悲劇が待ち構えていたのだ。

監督第2作目ということからか、ラージ・カプール監督作品としてはテーマの選び方やその話法にまだまだ未熟でぎこちない部分を感じるのは否めない。まず主演となる二人の男だ。一途に愛を信じそれを与えることを惜しまない男プランと、刹那的で浮気性、愛に関しては不誠実な男ゴパル。「愛」に対して正反対な態度を取る二人の男を描くことで、この物語は「愛の本質」を描こうとしたのかもしれないが、どうにも図式的に感じてしまう。ラストはその「愛に対する態度の違い」により、二人は相応の結末を迎えることになるが、これも教訓的過ぎて白けてしまう。また、ナルギス演ずるヒロインの、いちいち鼻をすする演出も余計に感じた。

それと併せ、主演・監督を務めるラージ・カプールが、自らの役柄をてらいもなく格好よく描き過ぎている部分に少々苦笑してしまった。スーツをパリッと着込み、ピアノとバイオリンをたしなみ、憂いのこもった顔で愛こそは至上と語り、そして美女ナルギス演じるヒロインと睦みあうのだ。自身の監督作ならむしろ嫌われ者になるであろう浮気性の男を演じないか?まあ自らの監督主演作で自らの役柄を格好良く描くことが間違いだとはいわないが、こんなラージ・カプールがなんだかお茶目さんだなあ、と思えてしまった。

こういった部分で多少引っ掛かりはあったが、作品自体はそちこちに見所がある。光と影の具合が巧みに計算されたモノクロ映像は十分芸術的であり技巧的であり、そして美しい。この時代の一般的なモノクロのインド映画がどの程度の芸術水準にあったのかは知らないので、この作品だけを取り出して芸術的だとは言えないのかもしれないが、それでもカプール監督の映像に対する意気込みやこだわりのほどは十分に感じた。まあ、見方によれば気取り過ぎとも取れる映像だが、決して悪いとは思えない。先程触れたお茶目ぶりといい、この映像の気取り方と言い、将来の大監督の余裕が見え隠れするともいえるではないか(というか最初から大監督だったのかな?)。

しかし「二人の男の対称的な愛」を描くこの物語は後半異様な方向へと乱調する(ここからクライマックスに触れます)。父親に結婚を反対されたレシュマは、流れの早い川を縄だけを伝って川向うのプランのもとに行こうとする。怒り心頭に達した父親は縄を切ってしまい、レシュマはそのまま川に流される。言ってしまえば父親による殺人(未遂)である。半死半生のレシュマは下流である漁師に拾われる。この漁師というのがいかにも独り者の異様な風体の男で、看病から覚めたレシュマを監禁し、自分の嫁にしようとするのだ。プラン恋しさに泣きじゃくるレシュマだがいよいよ結婚式の日がやってくる。だが外で車の事故が。事故車から結婚式場に連れ込まれた男は、なんと瀕死のプランだったのだ。瀕死の男がレシュマの想い人であることを知った漁師はブランを殺そうとする。

とまあ以上のような展開を迎えるのだが、それまで美しく切ない「愛の物語」だったものが一転、暴力と殺人と監禁と強要がドロドロと描かれる猟奇的な物語へと変貌するのである。観ていてなんじゃこれは?と思ったのである。ラストにおいて瀕死のプランはレシュマの愛により命を取戻す。反対にゴパルの愛を得られなかったニーラは自ら命を絶つ。これによって「真実の愛こそが命を助ける」という結論を付けたかったのだろうが、それにしてもシナリオのコントラストが激しすぎる。異様なのだ。ここまで必要だったのかとすら思えるのだ。しかし、この過剰さは後のラージ・カプール作品で随所に見られることになる。それがサービス精神なのかラージ・カプール天性のものなのかは分からないが、ラージ・カプール監督作の特徴ともなるものを垣間見せた初期作であるとは思う。

大都会ボンベイで詐欺師になってしまった男の良心〜映画『Shree 420』【ラージ・カプール監督週間】

■Shree 420 (監督:ラージ・カプール 1955年インド映画)


大都会ボンベイ(現ムンバイ)への長い道のりをトコトコと歩く男がいた。彼の名は身なりは貧しいが表情はどこか明るく輝いている。きっと田舎から夢と仕事を求めてやってきたのだろう。彼は自分の心の様を描いたような歌を歌いだす。「おいらの靴は日本製 履いてるズボンはイギリス製 頭の赤帽ロシア製 それでも心はインド製(「mera joota hai japani」)」。ラージ・カプール主演・監督により1955年公開された映画『Shree 420』はこんな具合に始まる。共演となるヒロインはラージ・カプールと16作の映画で共演したというナルギス。自分もこの間二人の共演作『Awaara』(1951)を観たがとても素晴らしかった。また、この作品はシャー・ルク・カーン主演『ラジュー出世する(Raju Ban Gaya Gentleman)』(1992)のオリジナル作品となっている。

主人公の名はラージ(ラージ・カプール)。夢と希望に燃えボンベイに辿り着くも、どこにも職は無いわ持ち金は掏られるわ、路上で寝ようにも金を要求されるわで早速都会の厳しさを思い知らされる。そんな彼だったが質屋で出会った娘ヴィディヤー(ナルギス)と恋に落ちてしまう。ヴィディヤーは下町で教員を営むが、彼女もまた貧しい暮らしをしていた。ラージはようやくクリーニング屋の仕事を見つけるが、洗い物の届け先に住む踊り子の女マーヤー(ナディラー)にトランプの腕を見込まれ、いかさま賭博の片棒を担がされるようになる。みるみるうちに大金をせしめるようになったラージは、正直者の顔を失い、あぶく銭に奔走する詐欺師と化してしまう。だがそんな汚れきったラージを、ヴィディヤーは決して快く思わなかった。

タイトルの「Shree 420」とはインド刑法の詐欺・不正行為を罰する法律セクション420に由来し、「詐欺師」とか「いかさま野郎」とかの意味になるのだろう。これは物語の最初で真っ正直な男として登場した主人公が都会の汚濁に染まりいかさま野郎と化してしまう様子を表したものなのだろう。物語で象徴的に描写されるのは、ムンバイに着いたばかりの主人公が質屋で「正直者コンテスト優勝メダル」を質入れしてしまう部分だ(もともと住んでいた村で獲得したものらしい)。いわば魂を大都会という名の悪魔に売り渡したというところだろうか。こういった象徴性も含め、物語は半ば寓話的な構成を成しているように思えた。物語では常に単純な対立項が描かれる。金持ち/貧乏人、正直者/よこしまな者、利己的な者/他者を思い遣る者、といった具合だ。これらは即ちモラリズムについての言及であり、さらには当時のインドの理想主義を体現したものだということなのだろう。

こうして主人公ラージの魂はムンバイという魔都を彷徨いながら善悪の狭間で揺れ動く。それはメフィストフェレスに魅入られたファウストであり、煉獄を道行くダンテである。ではグレートヒェンでありベアトリーチェであるものが誰なのかというとそれがヴィディヤーなのだ。彼女は罪悪に染まったラージの魂を照らす【善良さ】として登場する。これは同じラージ・カプール監督作品『Awaara』において、悪に染まった主人公ラジをヒロインであるリタが【希望】の象徴となって救済するのと似ている。これらはまた貧困からの救済を意味し、それが『Shree 420』においては【善良さ】という部分で説かれているのだ。確かに善良であるだけでは貧困から逃れることはできないかもしれない。それではこの【善良さ】とはなんなのかというと、冒頭で高らかに歌われる「心はインド人」であるということ、即ち「善良であろうとするインド人のプライド」ということになるのではないだろうか。

こうした役を演じる主演者二人が素晴らしい。ラージ・カプールは冒頭では無邪気で朴訥な田舎者の顔で登場しながら、中盤からはタキシードで身を包む涼しげな目つきの伊達男へと様変わりする。この鮮やかな変化に演者の力を見た。主人公キャラクターはチャップリン映画『小さな浮浪者』に影響を受けたものらしく、この『Shree 420』自体は純然としたコメディではないにせよ、弱者への同情や悲哀といった点で共通するものがあるだろう。一方ナルギスは清廉潔白すぎる役柄というきらいがあるにせよ、主人公ラージを時に鼓舞し時に叱咤し、主人公の心を大いに揺り動かすファム・ファタールとして神通力はこの作品でも如何なく発揮されていたように感じた。この二人がベンチでチャイを飲むシーンでのやりとり、そして雨の中傘を差しつつ歌うシーンは圧巻だった。

貧困と犯罪、格差とそれを乗り越えた愛を描く古典インド映画の名作『Awaara』【ラージ・カプール監督週間】

■Awaara (監督:ラージ・カプール 1951年インド映画)


映画『Awaara』は法廷の場面から始まる。ラジという男が裁判官ラグナスの殺人未遂容疑で逮捕されたのだ。女性弁護士リタはラグナスに問い詰める。「あなたにお子さんはいらっしゃらないんですか?」と。

そして時を遡り物語られるのは、かつて裁判官ラグナス(プリトヴィーラージ・カプール)が山賊に妻リーラを誘拐された事件だった。リーラはラグナスの子を身籠っていたが、ラグナスは山賊に狼藉されたための子だと思い込み、身重のリーラを冷酷にも追い出す。リーラは貧民街に身を落としラジという男の子(シャシ・カプール/子供時代のラジ)を生む。そう、実はラジはラグナスの息子だったのだ。極貧の中ラジ(ラージ・カプール)はコソ泥として育つが、ある日かつて幼馴染だった女性リタ(ナルギス)と再会し、激しい恋に落ちる。だがラジは自分が犯罪者であることを彼女に言うことができなかった。

1951年製作の、60年以上も前の白黒インド映画を、今の自分が観て面白いのだろうか?と思いつつ観始めたのだが、その考えは杞憂だった。杞憂どころか、これは素晴らしい名作じゃないか、と感嘆させられた。物語のテーマとなるのは貧困と犯罪、格差とそれを乗り越えた愛といったもので、それに親の身勝手から離別した子供、というドラマが加わる。今でこそこういったテーマはありふれたもののように思えるかもしれないけれども、1951年のインドにおいてはより切実で身に迫るものだったのではないか。インドで1951年といえば独立後まもなくであり、インド式社会主義が立ち上げられた時代でもあったが、経済のレベルは相当に低かったと聞く。

物語はそういった時代の理想と現実を相半ばしつつ描きながら、厳しい現実にあえぐものにいかにして希望の光を当てるのかに腐心する。母の胎内にいるうちから父に捨てられ、貧しさの中母を助けようと主人公ラジは否応なく犯罪に手を染める。そしてその犯罪の世界から足抜けすることができず彼はもがき苦しむ。そんな彼を救うのは誰だったのか。それはラジの愛しい女、リタであった。

リタのラジへの愛は、それは全人格的な愛だった。それはあたかも菩薩を思わすような比類なき慈愛であり、彼女はラジの貧しさも人生における過ちすらも全て赦し、そして二人いっしょに未来を築き上げようとラジを励ます。どん底に生きる貧民のコソ泥でしかない男に対するこのリタの愛はなんだったのか。男の夢の中だけの都合のいい女、実際には存在しない絵空事の女なのか。いや違う、彼女はその存在それ自体が【希望】というものの象徴だったのではないか。ラジの中の、希望を請い求める心、それがリタだったのではないか。さらにまた、厳しい現実の中で希望を失わずに生きるということの、製作者たちの代弁者がリタだったのではないだろうか。

このリタを演じる主演女優ナルギスが相当に素晴らしい。自分は以前彼女主演の『Mother India』を観た程度だが、この作品でも彼女はインドの母であり大地であり地母神であるものの象徴として登場した。『Awaara』では菩薩を、『Mother India』では地母神の化身を演じるナルギスだが、彼女自身が女神のような美しさと温かさを持った女優だったからこそ可能だったのだろう。また、物語の最初に彼女が弁護士として登場した時は、不遜ながらこの当時のインドでこのような前進的な女性像を描くことができたのか、と驚いた。

また、主演・製作・監督をラージ・カプールが務め、彼の才能とその底力を示した作品となっている。さらに彼の父プリトヴィーラージ・カプール、4男でラージと14歳年の離れたシャシ・カプールの共演もあり、役者親子の共演というのはインド映画では度々見られることだが、この作品ではまるで違和感を感じず、むしろはまり役だった。この作品は本国のみならず旧ソ連、中国 、トルコ、アフガニスタン、そしてルーマニアなどで大ヒットを記録し、カンヌグランプリ作品としてもノミネートされた、記念すべきインド映画もである。

顔に火傷跡がある娘とそれを知らずに恋をしてしまった男との恐るべき顛末〜映画『Satyam Shivam Sundaram』【ラージ・カプール監督週間】

■Satyam Shivam Sundaram (監督:ラージ・カプール 1978年インド映画)

■顔に大きな火傷跡がある娘

顔に大きな火傷の跡がある娘と、それを知らず彼女に恋をしてしまった男。1978年ラージ・カプール監督作『Satyam Shivam Sundaram』は、そんな奇妙で困難な愛を発端としながら後半一転、狂気に満ちた展開と思いもよらぬ凄まじいパニック描写を見せてゆく恐るべき作品だ。タイトル『Satyam Shivam Sundaram』の意味は「真理、善と美」という意味になるらしい。これはプラトンイデア論であり、この世に存在するのは本質の投影されたものに過ぎないという哲学だ。しかしいったいこんな粗筋を持つ物語でどんな真理と善と美、あるいは本質が語られてゆくというのだろうか。主演はシャシ・カプール、ヒロインにズィーナト・アマーン。今回は全体的にネタバレしているので「これからどうなっちゃうんだ!?」とハラハラしながら観たい方は(本当にハラハラしどうしです)読まない方が懸命かも。

《物語》インドの農村で暮らす娘ルパ(ズィーナト・アマーン)は子供の頃煮えた油を顔に浴び、右頬から首にかけて醜いケロイドを残していた。そんな彼女だが、その歌声は類稀な美しさを秘め、村にやってきたダム技術者のランジーヴ(シャシ・カプール)もそんな歌声に魅せられた一人だった。ランジーヴは歌声の主を求め、ルパを見つけ出すが、ルパは火傷跡を見られるのを恐れ、常に顔を隠しながらランジーヴに接し続けた。にもかかわらずランジーヴは遂にルパとの結婚を決め、周囲もそれを喜び、そして抗うルパの声を無視して結婚の日が訪れてしまうのだ。

■異様な物語性

異様な物語である。なにより顔に火傷のある娘が主人公であり、映画の間中主演女優の特殊メイクされた火傷跡を見せられる、というがまず異様だ。そして男が真実を知らないままその娘と逢瀬を重ね結婚までする、という部分がまた異様だ。こういったシチュエーションは、暖かくも冷たくも描けるが、この作品ではもっと異様な領域まで踏み込んで描かれる。それは結婚し、真相を知った男の狂気の様だ。さらにクライマックス、一組の男女の怨恨であったものが、なぜか天変地異まで呼び寄せて、特撮を駆使した大スペクタクルに生まれ変わってしまう、という信じられない展開が、またもや異様なのだ。

物語のそもそもの発端から、映画を観る者はまず「男はいつ娘の火傷跡を知るのか」という部分に関心が行くだろう。そして「知ることにより、この二人はどうなるのか」と思うだろう。しかしこれが、なかなか知られないのだ。娘は最初、ずっと男を避けていた。それは、醜い自分が男に愛されるはずがない、という悲観と、男が自分の火傷跡を知れば嫌うだろう、という恐怖からだ。しかもそれは、これまで幸薄い人生を歩んできた娘にとって、最初で最後の希望であるかもしれないのだ。しかし娘は男を次第に愛し始め、二人はいつしか逢瀬を重ねるようになるが、この間、終始娘はヴェールで顔半分を隠している。そんな娘の顔を、男は恥ずかしがり屋なのだろう、と無理に見ようとはしない。こうして映画は、「真相を知らない」という状況をずっと引っ張り続ける。この辺で「なんとも凄いシナリオだ」と唖然とさせられる(ただし半笑い)。

■作品に横溢する狂気

しかし結婚のその日という最悪のタイミングで男は真実を知ることになる。「こんな女と結婚なんかした覚えがない!」と男は絶叫するが、時既に遅く、インドの神聖な結婚の儀式が済んだばかりなのだ。この「結婚の儀式のあとは何人も別れることはできない」というインド独特の信仰が状況をさらに異様なものにしてゆく。男は取り乱し「僕の本当の妻はどこにいるんだ!」と喚きまわるが、この時、男の精神に現実との乖離が引き起こされる。なんと彼は「火傷跡のある現実の妻」を否定し、「火傷跡の無いどこかにいる筈の本当の妻」を探し求めるようになるのである。そしてかつて逢瀬を重ねた滝のある場所へ、「本当の妻」を求めて彷徨うのである。そしてこの中盤から、物語の狂気は加速し始めるのだ。

妻はこんな男を哀れに思い、また、愛しているこの男と再び以前のように睦みたいがばかりに、「火傷跡の無い本当の妻」として男の前に現れ(しかしやはり火傷跡は隠しているのだ!)、男もそれを喜び、二人は思い出の滝のある場所で幸福に包まれながら愛しあうようになるのである。愛しあう二人の情景は幻想的なセットの中で行われ、それが夢のようであればあるほど、現実との距離のあまりの隔たりに寒気を覚えさせる。しかし愛の行為が終わり、男が家に帰るとそこには「火傷跡のある現実の妻」がいて、男はまたもや彼女を汚物を見るかのように惨たらしく扱う。この、現実否定と現実逃避の恐るべき二重生活を続ける男の精神は、既に狂気に蝕まれているのだ。そんな生活に、「本当の妻」として愛されることで耐え続ける女の業にもまた、哀れであると同時に異様なものを感じる。

■遂に決壊する現実

だが、そんな異常な生活に破綻が訪れる。女が身籠ったのだ。身籠った妻を男は激しく折檻する。「寝たことも無いお前が俺の子供を身籠る筈が無い!お前はどこかの男と交わって不貞の子を宿したのだ!」だがそれは間違いなく男の子であり、今度こそ女は男に真実を知ってもらおうと泣き叫びながら懇願する。そんな女を男は足げにして行ってしまう。ここで遂に女の怒りが爆発する。女は「地は揺れ、天は裂けるだろう」と男に呪いの言葉を投げかける。するとどうだ、本当に凄まじい暴風雨がやってきて村を襲い、人々は逃げ惑い川上のダムは決壊の危機を迎えているではないか!?

異様な物語はここに来て、さらに異常な展開を迎えることになる。女の呪い通り天変地異が訪れてしまうのだ!これは女の父が僧侶であり、娘の妊娠を巡るいざこざの中で息絶えたという背景があることから、ある種の神意に関連したものであろうとは思われる。だが、それにしても本当に天変地異が訪れるとは、いったいどうなっているんだ、と観ているこちらはこの段階で既に白目を剥いている状態である。ここでは円谷プロもかくやと思わせる様な特撮とミニチュアを使い、暴風雨の中ダムが決壊し、それに飲み込まれる村の様子まで描かれてしまっているのだ。いったいなんなんだこの物語は…。

■真理と善と美

確かに、タイトルにある「真理と善と美」は、それは見た目ではなく、心の裡にあるものだ、ということをこの作品では訴えたかったのだろう。そしてその「真理と善と美」とは即ち【神性】のことであり、その【神性】をないがしろにしたばかりに、このような恐ろしいことが起こった、ということなのだろう。この作品では冒頭からビシュヌ神の神殿、シヴァ神のリンガ、ガネーシャ神など、溢れんばかりにヒンドゥー神の像が登場し、女の歌う歌はそれを讃えるものなのだろう。そしてそれは神の愛と人の愛とを重ね合わせた意味となるのだろう。

ただそれにしても、それを見せる為にここまでのものを描いてしまうという部分にインド映画の凄まじさを感じてしまう。そしてここまで描きながらも、やはり「愛」の物語として結末を迎える所がまたしてもインド映画らしい。こんな映画を作れるのはインド映画だけだろう、と思ったが、ちょっと待て、この映画、日本の『大魔神』と相当近いものがあるぞ…。なにしろ本当に凄い、そして濃い作品だった。カルト映画好きの方、とんでもない映画が観たい方に是非お勧めしたい作品だ。