インド映画を巡る冒険(仮)

以前メインのブログに書いたインド映画記事のアーカイヴです。当時書いたまま直さず転載しておりますので、誤記等ありましてもご容赦ください。

失われたミューズを追い続けるラージ・カプール初監督作〜映画『Aag』【ラージ・カプール監督週間】

■Aag (監督:ラージ・カプール 1948年インド映画)

■顏の焼けただれた男

それは新婚初夜のことである。ベッドの上で艶めかしく微笑みながら夫を待つ妻。寝室に夫が入ってきて妻に呼びかける。恥じらいに伏し目がちにしていた彼女はゆっくりと顔を上げる。だが夫の顔を見た彼女は絶叫を上げる。なんと夫の顏は、その半分が焼けただれていたのだ。相手の顔を見ることなく結婚が決まることもあるインドならではの悲劇なのだろう。そして怯えて泣きじゃくる妻に、夫はゆっくりと自らの哀しみに満ちた半生を、火傷のわけを語り始める…。

1948年、23歳のラージ・カプールが初監督した記念すべき作品『Aag』は、まるでハマー・フィルムのホラー作品を思わす猟奇的なオープニングから始まる。タイトル「Aag」の意味は「火」。それは主人公の顔を焼き尽くした火の事なのであろうか。彼の身に過去、いったい何が起こったのだろうか?

《物語》
主人公の名はケワル。彼は幼い頃(シャシ・カプール/子供時代)芝居に目覚め、友人を集めて素人舞台を立ち上げるほどだった。しかしその初演の日、ヒロインを務める筈だった少女ニンミが親の都合で突然町を去り、ケワルの最初の舞台は遂に演じられることはなかった。
それから10年後、学生となったケワル(ラージ・カプール)は再び演劇に挑む。その演目のヒロインに、ケワルはニンミと呼ばせてくれと頼み込み、それを承諾してもらう。ところがこの舞台もヒロインの降板で頓挫してしまう。
その後ケワルは父親と同じ弁護士になるため試験を受けるもこれが不合格。この時、ケワルは演劇の道に進むことを決意し、父の反対を押し切って家を飛び出す。だが世間の風は冷たく、失意のまま彷徨う彼は、ある劇場に入り込む。その劇場のオーナーである芸術家のラジャン(プレムナス)はケワルの窮状を知り、彼に舞台演出を任せてみる。
夢の叶ったケワルは劇を書きあげ、出演者のオーディションに挑む。そして彼の舞台のヒロインとして抜擢された女性(ナルギス)に、ケワルは再びニンミと名乗るよう懇願する。度重なる稽古の中で芸術家のラジャンはニンミを愛するようになる。しかしニンミが恋していたのはケワルだった。そしてその三角関係は遂に破局を迎えることになる。

■ラージ・カプールのエッセンスが詰まった初監督作

処女作にはその作者の全ての要素が詰まっているという言葉があるが、ラージ・カプールの初監督作品となるこの『Aag』にも、その後のカプール作品に表れるモチーフがふんだんに盛り込まれていることが発見できて非常に面白い。長々と粗筋を書いたのはその共通点を示唆するためだ。

まず「顔半分が焼けただれた男」だ。これは「顔半分が焼けただれた女」として1978年公開の映画『Satyam Shivam Sundaram』に登場する。そして「演劇を目指す男のヒロインが人生の節目節目に三度変わる」という物語の流れは、1970年公開の『Mera Naam Joker』において「道化師を目指す男の人生に登場する3人の女」に呼応する。さらに「一人の女性と友人との三角関係に至るが、主人公は友情を選ぶ」というモチーフは1964年公開の『Sangam』そのものだろう。こじつけを承知で書くなら「放逐された弁護士の息子」は1951年の『Awaara』になるか。ううむこれは無理矢理すぎるか。

もう一つはカプール監督の奇妙な猟奇趣味とその要因ともなる暴力だ。この『Aag』でいうなら「醜い火傷のある男」でありその火傷が出来た原因ということになる。娯楽映画に暴力的要素が盛り込まれるのは珍しくはないが、カプール作品においてそれは突発的であったり衝動的であったりするため驚かされるのだ。要するに物語内において「飛び道具」のように使われるのである。その最たる例が『Satyam Shivam Sundaram』だが、他にも『Barsaat』(1949)における監禁と暴力、『Sangam』(1964)の衝動性、『Bobby』(1973)の集団リンチ、『Prem Rog』(1982)の凄まじい銃撃戦、といった形で表れる。

これら猟奇と暴力は物語の中心的要素では全くないのだが、カプール監督の密かな趣味なのかそれともサービス精神なのか定かではないにせよ、なぜだか劇中に突発的に盛り込まれるのだ。どちらにしろ、様々なカプール作品を鑑賞した後に観るならば、この『Aag』は多くの発見があり楽しめるだろう。

■失われたミューズを乞い求める物語

映画内容それ自体で見るなら、初監督ということでまだ慣れていないせいか、前半は物語の核心へ繋げるための段取りに終始し、どこか作業的に物語られている部分が無きにしも非ずだ。そしてヒロインであるナルギスが中盤まで登場しないため、それまで主人公が右往左往するだけの華の無い物語が進んでしまう。しかしナルギス登場後はその艶やかさと歌と踊りの充実でようやく楽しめる作品になってくる。というかナルギスは本当にいい、いろいろな古典インド映画を観て本当によかったと思ったことのひとつはナルギスの素晴らしさと出会えたことだ。

この作品において主人公ケワルは最初に出会った少女ニンミの名前を二人目三人目の女性にも名乗らせようとする。日常的な恋愛感覚で考えてしまうとこれは異様なことではあるが、これにはどういった意味が隠されているのか。最初自分は「これはファム・ファタールを追い続ける男の物語なのだな」と思っていたのだが、しかしよく見てみるなら、ケワルにとって"ニンミ"は単なる恋人ではなく、常にケワルが演出する舞台のヒロインとして登場しているのだ。そこに恋愛感情が無かったとはいえないが、それよりもまず、"ニンミ"はケワルが劇作を生み出す想像力の核であったこと、すなわちミューズであったということなのだ。だからこそ、ミューズという核を失った劇はすぐさま頓挫することになるのだ。失われたミューズを乞い求め続けるこの物語は、つまりはケワルが自らの劇作の完全なる完成を乞い求め続ける物語であったということができる。いうなれば監督ラージ・カプールが、不安と葛藤の中、その初監督作品の成功を懇願しつつ悪戦苦闘と試行錯誤を繰り返す、その過程そのものがこの作品だったのではないか。

乞い求めるほどに離れていってしまうミューズの存在にケワルは苦悩し、遂にクライマックスにおいて「顏の火傷」の原因となった事件が起こってしまう。それだけだと暗澹たる物語として終焉するが、しかしこの物語にはある救済が用意される。そしてこれが素晴らしい。観終わって「ああ、こういう物語だったのか!」と叫んでしまったほどだ。このラストの構成によってラージ・カプールはその非凡さを大いに世に知らしめることになっただろう。このラストは、監督ラージ・カプールが遂に自らの作品の納得できる完成に辿り着いた瞬間をも表わしているのだろう。こう考えると、「顏の火傷」それ自体すら"名監督誕生"の"聖痕"であったともいえないだろうか。