インド映画を巡る冒険(仮)

以前メインのブログに書いたインド映画記事のアーカイヴです。当時書いたまま直さず転載しておりますので、誤記等ありましてもご容赦ください。

2008年公開のシャー・ルク・カーン主演作『神が結び合わせた2人』を観た

■神が結び合わせた2人(原題:Rab Ne Bana Di Jodi)(監督:アディティヤ・チョープラ 2008年インド映画)

f:id:globalhead:20190103163410j:plain

去年の暮れに映画納めということで観た映画はインド映画『神が結び合わせた2人』。シャー・ルク・カーン、アヌシュカー・シャルマー主演により、『Dilwale Dulhania Le Jayenge』(1995)で名高いアディティヤ・チョープラーによって監督された作品だ。映画は「インディアン・シネマ・ウイーク・リターンズ2018」の1作として公開されたものを観た。上映時間は164分。

【物語】アムリトサルで電力会社に勤めるスリーは思いがけず恩師の娘ターニーと結婚し、ぎこちない生活を送っていたが、妻の心を勝ち取る為にサエない外見を一掃し、別人ラージを装い、妻が通うダンス教室に現れ、ペアダンスを踊る事になった・・・。キング・オブ・ボリウッドシャールク・カーンが二役を演じる、涙アリのラブコメディー。

神が結び合わせた2人(原題:RAB NE BANA DI JODI) – ICW Japan 2018

地味ダサ男スリーが恩師の縁でやっと結婚できたにもかかわらず、嫁ターニーが全く心を開いてくれないことから一計を案じ、イケイケ派手男ラージに変装して嫁に近づき、ウェイウェイ言いながら気を引こうとしてみたが……というのがこのお話である。ターニーとラージが出会うのはダンス教室であり、これによりインド映画十八番の歌と踊りがたっぷり盛り込まれることとなる。

実はこの作品は以前、輸入DVDで英語字幕で鑑賞していた。その時の感想はこれ。

この時は非常に感銘を受け、シャールク作品の中でも結構なお気に入り作となった。そして今回やっと日本語字幕で鑑賞する事ができたのだが、また別の感想を抱いた。

まずなにしろ映画館の大画面で観ると、映し出されるインドの様々な街並み、情景が圧倒的な美しさでもって迫ってくる。歌と踊りのシーンは優れた音量と音響でもって迫力たっぷりだ。日本語字幕は英語字幕で観た時より発見は少ないが、当然細かなニュアンスは伝わってくる。

しかし初見時と違う印象を抱いたのは、主人公スリーの人間性である。初見時は内向的な男のいじらしいほどの愛の深さに心動かされたが、こうして二度目に観ると、これは恐ろしく屈折している上に一歩間違うと相当アブナイ方向に転びかねない紙一重の物語だな、と思わされた。

そもそもスリーが演技するラージのキャラクターはどこから来たのか。己の性格の逆を行っただけなのかもしれないが、実はもともとスリーに内在したものだったのではないのか。映画的に見るなら二つのキャラを演じるシャールク演技の妙を楽しめればいいのだが、リアルに見ようとすると相反する性格を持った二重人格者ということになってしまう。単にスリーが芸達者なだけだったとしたらこの描写は唐突なものになる。

そして演じられるラージのキャラはくどくてしつこい。この態度で女性の前に臨むラージはよくて傍迷惑、悪く取るなら変質者だ。もう一つ、ターニーを明るくさせようという目論見だったこの変装劇は最終的にターニーの愛を試す行為に変わってしまう。それもまたスリーらしからぬ傲慢さに思えてしまう。

一方ターニーも容易くラージにヨロメキ過ぎなのではないか。最初こそラージのキャラに辟易しつつ心変わりするターニーだが、ラージの一本調子なキャラは最初から最後まで(あえて)薄っぺらい。ラージのキャラの中に垣間見えるスリーの優しさに心安らいだ、というのが順当な解釈だとしても、それと愛とは別のものな筈ではないか。最後のあの気の迷いはラージの中の人であるスリーはどう受け止めるのか。いや、ターニーが幸福を感じればそれでいいとスリーは思っていたのかもしれない、だがそれにしても裏切りは裏切りだという気がする。

とはいえこういった危ういバランスの中でラストは辛うじてハッピーエンドを迎える。この「危ういバランスの中」であったからこそ物語は複雑な、ある種哲学的とも言える妙味を生んではいると思う。レオス・カラックス辺りのフランス映画とも通じているのではないか。

しかしなあ。やっぱ心情の応酬がややこしすぎまへん?ここまでややこしくしないと「愛」って認識できないものなのかなあ?それと「愛」だ「神」だと連呼し過ぎるのは単なる自己正当化じゃありまへん?まあとりあえずとことん屈折した物語ではあったよなあ。


Rab Ne Bana Di Jodi | Official Trailer with English Subtitles | Shah Rukh Khan | Anushka Sharma

映画『ムトゥ 踊るマハラジャ 【4K&5.1chデジタルリマスター版】』を観た

ムトゥ 踊るマハラジャ【4K&5.1chデジタルリマスター版】(監督:K・S・ラヴィクマール 1995年インド映画)

f:id:globalhead:20190106171247j:plain

■実は『ムトゥ』を今までちゃんと観ていなかった。

一時インド映画に猛烈にハマってしまい、 インドから大量のインド映画DVDを購入しては毎日憑りつかれたようにそれらを観続けていた時期があった。そして訳も分からないクセにその感想をブログに書き殴りまくっていた。当時は一部の方にオレといえば「インド映画の人」と認識されていたりもしていた。実の所、本当にインドやインド映画を心の底から愛している方は大勢おり、オレなんぞはそれらの方と比べるなら単なる冷やかしに過ぎなかったが。

そんな「なんちゃってインド映画ファン」のオレだが、実はある超有名作だけはちゃんと観ていなかったのである。なんとそれがこの『ムトゥ 踊るマハラジャ』だったのだ。

「ちゃんと観ていなかった」と書いたが、正確には「全部観ていない」ということなのだ。1998年、日本で公開されるや一大マサラムービー旋風を巻き起こし、当時の話題をかっさらった『ムトゥ』だが、映画ファンの端くれとして存在自体は認識していた。渋谷に行くと上映館であるシネマライズに主演女優を描いた巨大な看板が飾られていたのを何度も目にしていた。だが当時のオレは、この作品を単なる「キワモノ」だと思っており、興味こそあったが結局劇場で観ることは無かった。

その後レンタルビデオ店に並ぶようになったこの作品を、オレはようやく鑑賞することとなった。しかし映画が始まり、なにやら勇ましい音楽も、アクションシーンや歌と踊りにも、どうにも薄っぺらいものしか感じなくて、少しも面白く思えなかった。なにより主演のラジニカーントが、「単なるムッサイおっさん」にしか見えなかった。致命的だったのが画質の悪さだ。もやもやぼやぼやした画像からはひたすら貧乏臭いものしか感じなかった。オレは飽きてきて途中までしか観ていないビデオをレンタル店に返却した。

まあ要するに、出会いが不幸だったということだったのだろう。それから何年かして劇場でインド映画『チャンドニー・チョーク・トゥ・チャイナ』(2009)を観る機会があったが、その時は素直に、インド映画独特の作品世界に驚嘆し、心底楽しい作品だと感じられたからだ。オレが本腰を入れてインド映画に傾倒し始めたのはそれからさらに先となり、2014年の事となるのだが、その頃から日本でレンタルできるラジニカーントの映画をぽつぽつと観るようになったのだけれども、そのどれもが実に面白く楽しめるものだった。とはいえ、結局のところ、この『ムトゥ』だけは、なぜか観る事がなかったのである。

■そしていよいよの『4K&5.1chデジタルリマスター版』登場。

そして今回の『4K&5.1chデジタルリマスター版』公開である。ああ、遂に来たか、とオレは思ったのだ。これはヒンドゥー神がオレに「いい加減そろそろ『ムトゥ』を観よ」と命じているのだな、と。オレはすっかり観念して、いそいそと劇場に足を運んだ。ちゃんとパンフレットも買って。

とまあそんな訳でようやく『ムトゥ』を観たのだが、率直に感想を述べるなら、「まあこんなもんかな」といったものだった。「ええと、面白く出来てるよ、でも、ラジニがこの作品の後に主演した『ボス その男シヴァージ』や『ロボット』のほうがもっと面白かったかな」と思ったし、「日本で一大ブームを築いた記念碑的作品として非常に重要だけれど、今はもっと凄いインド映画があるし、むしろそういった作品を一般に観られるようにしたほうがいいかな」とも思った。そして「あまりインド映画に馴染の無い方が今これを観てもそんなに楽しめないんじゃないかと思うし、あくまで回顧として観るのはいいけどこれがインド映画のスタンダードだと思われるのもちと辛いな」とすら思った。すまん。ファンの皆さん、大変すまん。

いや、決してこの作品をクサすつもりはない。物語の骨子は王道であるが故に古びるものではなく、勧善懲悪の在り方や秘められた出生の物語は非常に分り易く十分観客の心に訴えかけるものがある。ラジニカーントはどこまでも雄々しくあるいは茶目っ気たっぷりで、スターの貫禄たっぷりだ。ヒロインのミーナは今の基準でいうと古いかもしれないがしかし日本人観客には「エキゾチズム溢れた原型的なインド女優」と受け止められるだろう。さらにその気の強い性格は単なるお姫様女優ではないという意外性がある。

なにより歌と踊りは時代を超えて美しくひたすら煌びやかで楽しい。アクションは今のインド映画と比べると素朴なものだが、それでもクライマックスに於いて怒り心頭に達したラジニの鬼神の如き戦いには非常に興奮させられる。注意深く観るならここには非常に暗い情念と暴力性が秘められていることも感じられるが、これは南インド映画ではポピュラーなことだ。注目すべきはR.A.ラフマーンの音楽で、伝統音楽のように思わせて実は電子楽器が導入され、ブレイクビーツが聴こえてきたりもするモダンなものだ。当然ブラッシュアップされた映像と音響は鑑賞するうえでまるで問題ない。

だから、悪くは無いんだ。そして、観てよかった、とも思っている。今観なかったら、いつまで経っても観られなかったから。ただやはり悔しいのは、こうして今更のように観ている自分が、日本初上映時にこの映画に感嘆しファンとなった多くの方の盛り上がりに、見事に乗り遅れてしまった、その興奮を共有出来なかった、ということなのだ。返す返す、やっぱり出会いが不幸だったんだなあ、二人は恋人になれなかったんだなあ(?)と思えて仕方がない。


「ムトゥ 踊るマハラジャ(4K&5.1chデジタルリマスター版)」予告編

ムトゥ 踊るマハラジャ[Blu-ray]

ムトゥ 踊るマハラジャ[Blu-ray]

 
チャンドニー・チョーク・トゥ・チャイナ [DVD]

チャンドニー・チョーク・トゥ・チャイナ [DVD]

 
ボス その男シヴァージ [DVD]

ボス その男シヴァージ [DVD]

 
ロボット 完全豪華版ブルーレイ [Blu-ray]

ロボット 完全豪華版ブルーレイ [Blu-ray]

 

チビ男と車椅子女性の恋/映画『Zero』

■Zero (監督:アーナンド・L・ラーイ 2018年インド映画)

f:id:globalhead:20181223171632j:plain

■今年最後のインド映画大作はシャー・ルク・カーン主演作

身長137センチしかないチビの男が恋をしたのは脳性麻痺を患う車椅子の女性だった。2018年の掉尾を飾るボリウッドラブロマンス大作『Zero』が遂に公開されました。主演はキング・オブ・ボリウッドことシャー・ルク・カーン、ヒロインにアヌーシュカ・シャルマー、カトリーナ・カイフ。ちなみにこの3人は2012年公開の『命ある限り』でも共演を果たしております。監督は『タヌとマヌは結ばれる』(2011)(Netflixで公開中)とその続編『Tanu Weds Manu: Returns』(2015)、『ラーンジャナー』(2013)のアーナンド・L・ラーイ。作品はSpaceBox主催のインド映画上映会で英語字幕で鑑賞しました。

《物語》ウッタル・プラデーシュ州のメーラトに住む38歳の男、バウア・シン(シャールク・カーン)はお喋り好きのお調子者だったが、137センチの低身長が災いしてか結婚相手がおらず、今日も結婚相談所に駆け込む。バウアはそこで宇宙工学技術者のアーフィア(アヌーシュカ・シャルマー)という名の女性にぞっこんになる。矢も盾もたまらず彼女に会いに行くバウアだったが、なんと彼女は脳性麻痺により車椅子生活を余儀なくされている女性だった。逡巡や諍いなどがありながらも、バウアとアーフィアは目出度く結婚が決まる。しかし、バウアが以前より大ファンだった女優のバビータ(カトリーナ・カイフ)ととあることから知り合ったことにより、その結婚に暗雲が立ち込めることになる。

f:id:globalhead:20181224125111j:plain

この作品でまず最初に目を惹くのはあのシャールクが、特殊効果により背丈の小さな男を演じる、という所でしょう。シャールクは2016年の主演作『Fan』において、やはり特殊効果を使い「自分にそっくりのファンにストーカーされる映画スター」を一人二役で演じますが、「そっくりではあるが微妙に違う顔の不気味さ」を実に巧みに盛り上げることに成功していました。いわゆる二枚目俳優であるシャールクですが、『神が結び合わせた2人』(2008)のようなあえて地味でダサい役を演じたり、今作や『Fan』のようなエキセントリック極まりない役を演じてみたりと、スターの座に甘んじない冒険心を非常に感じることが出来ました。

■マジカルでファンタスティックな展開が魅せる前半

さて物語はどうでしょう。前半においてシャールク演じるバウアは、止め処も無いお喋りと胡散臭い調子の良さを延々と披露し、その一癖も二癖もあるキャラクターを観客に強烈に印象付けます。実はシャールク、癖のある役が巧いんですよね。とはいえ、その楽天的な一途さが彼をどことなく憎めない男にしています。それに対しアヌーシュカ演じるアーフィアは、最初困惑しつつもいつしか彼を愛するようになるのです。そして、この2人の愛がまさに成就するその時の演出が、もうマジカルとしかいいようのない最高に素晴らしいファンタジックな映像で盛り上がりまくってくれるのですよ!まさにインド映画の面目躍如ともいえる見所中の見所です!!

背丈があまりに低いこと、車椅子での生活を送っていること。これらは、一般的なロマンスを困難にする要素ではあるでしょう。物語はそんな困難さを背負った男女がお互いに愛を見出し結ばれる様を描きます。しかしこれは、障碍者にもロマンスは可能だなどと言っている作品ではありません。世に暮らす多くの人は、実は大なり小なりなにがしかの困難を抱えているものです。それは容姿であったり性格であったり、家族や経済的事情であったりと様々でしょう。映画における2人の障害は、これらをアナロジーとして表現したものであり、その本質にある「愛は困難を乗り超える」というメッセージは観るものの心に普遍的に響くことでしょう。

しかし、かねてからバウアがご執心だったボリウッド女優バビータとバウアが、あるきっかけから急接近することになり、物語は大波乱を迎えたまま後半へと続くのです。

f:id:globalhead:20181224084949j:plain

■波乱の展開を迎える後半 

この後半冒頭はバビータとバウアの物語となっていきます。ここからはあまり内容に触れないことにしますが、この後半ではこれまでのアーナンド・L・ラーイ監督作品と同様、「男と女の一筋縄ではいかない愛の確執」が描かれてゆくことになるんです。それは表裏一体となった愛と憎しみであり、愛するが故の怒りであり、愛に名を借りた支配であり、諦めた筈なのにくすぶり続けてしまう愛の記憶でもあるのです。オレはこういった展開を迎えるこれまでのアーナンド監督作品どれもに衝撃を受けたのですが、この作品でもそういった生々しい感情が次々と爆発してゆきます。「ラブロマンス作品」の一言で終わらない深みと複雑さがアーナンド監督作品には常に存在しているのです。

映画『Zero』は「男と女の一筋縄ではいかない愛の確執」を描きながらさらにクライマックスにおいて「悔恨と贖罪」というテーマへとなだれ込んで行きます。愛する者を傷つけてしまった罪をどう贖うのか、ということです。しかしこういった展開を迎えながら疾走してゆくクライマックスは、物語を盛り上げようとすればするほどリアリティから乖離してゆき、これはこれでひとつのファンタジィと見ることもできますが、個人的にはどこか置いてけぼりにされてしまったような気分を味わいました。逆に、これほどまでに大きな「仕掛け」を用意したのは、従来的なラブロマンス展開を超越してみせたいという監督自身の野心であったのかもしれません。そういった部分で評価の難しい作品なのですが、もう一度観れば評価が化けそうな気もします。

f:id:globalhead:20181224085123j:plain

主演のシャールクは安定の演技、踊りのシーンも最高に楽しくいつも通り魅了されました。いやあ、やっぱりスクリーンでシャールクを見るのは幸せなことですね!アヌーシュカ・シャルマーは車椅子に乗っている上に脳性麻痺でぎこちない動きしか出来ない、という難しい役を、決して痛々しく感じさせることなく、さらにチャーミングさすら感じさせる演技を見せていました。一方カトリーナ・カイフは酒びたりで行動が支離滅裂な映画女優という汚れな役柄を堂々と演じ、演技の幅を見せ付けてくれました。ビッチなカトリーナ、最高にセクシーだったな!さらに今作では鼻血が噴出しそうなぐらいに膨大な数のボリウッド俳優のカメオ出演が見られますので、もうこれらのシーンだけでもチケット代の元を取ったようなものです。う~んやっぱりもう一度観たい!

f:id:globalhead:20181224085009j:plain



Zero | Official Trailer | Shah Rukh Khan | Aanand L Rai | Anushka | Katrina | 21 Dec 2018

『きっと、うまくいく』『PK』の監督ラージクマール・ヒラニによる新作伝記映画『Sanju』

■Sanju (監督:ラージクマール・ヒラニ 2018年インド映画)

f:id:globalhead:20181222150745j:plain

■インド映画界の巨匠ラージクマール・ヒラニ監督最新作

今日は傑作映画『きっと、うまくいく』『PK』で日本でも広く知られるインド映画監督ラージクマール・ヒラニの最新作『Sanju』を紹介したいと思います。この『Sanju』、今年1月にインドで公開されたのですが、ボリウッド作品としては今年最大のヒットを飛ばしているんですね。物語は現在も活躍する実在のインド映画スター、サンジャイ・ダットのこれまでの人生を振り返ったものとなっています。オレ自身は輸入盤DVDにより英語字幕で鑑賞しました。

とはいえ、日本の映画ファンの方にとっては「サンジャイ・ダットって誰?」と思われるに違いありません。日本で紹介されているサンジャイ出演映画作品は『PK』『アラジン 不思議なランプと魔人リングマスター』『レッド・マウンテン』『アルターフ -復讐の名のもとに-』などがありますが、これも『PK』以外はコアなインド映画ファンじゃないと知らない作品ばかりでしょう。

f:id:globalhead:20181222181746j:plain

■「Sanju」って誰?

実はこのサンジャイ、インド本国ではいろんな意味で有名な俳優なんです。父母がインドでは知らない者のいない映画俳優のスニール・ダット、女優のナルギスという映画大スター一家の生まれであり、本人も俳優として様々な作品に出演しています。ちょっと怖い顔をしているので、自分が今まで観た作品の中では悪役ぽい役が多い気がします。特に映画『Agneepath』の悪役演技は「インドにはこんな怖い俳優がいるのか!?」と啞然とした記憶があります。日本の俳優で言うなら若山富三郎原節子との間に生まれた石橋蓮司って感じかな?

しかし彼が真に「有名」なのはそこだけではありません。なんと彼はドラッグ、銃の不法所持、テロ・破壊活動の容疑により有罪判決を受け5年の禁固刑に処せられた、という過去を持っているんですね。サンジャイを知らない方なら「いったいどんな悪人なんだ!?」と思ってしまうでしょう。しかし映画は、彼のそんなスキャンダラスな側面のみを描くのではなく、そのような反社会性に走ってしまった彼の孤独な魂に寄り添うかのように作られた作品なんです。だって、なんたってラージクマール・ヒラニ監督ですよ!?

f:id:globalhead:20181224124809j:plain

■破滅へとひた走る放蕩生活

物語はこのスキャンダル真っ盛りの頃、サンジャイの妻マーニヤター(ディヤー・ミルザー)が夫の真の姿を知ってもらうべく作家のウィニーアヌシュカー・シャルマー)に彼の伝記を執筆依頼するところから始まります。そしてサンジャイ(ランビール・カプール)が語り始めたのは、高名な俳優である父スニール・ダット(パレーシュ・ラワル)からの期待に圧殺されかけていた青春時代、さらに、インドで最も有名な女優である母ナルギス(マニーシャー・コイララ)が、死に至る病魔に襲われたことへの深い悲しみでした。

インド映画では「強大なる父権との確執・対立」というモチーフが非常によく描かれます。カラン・ジョーハル監督による『家族の四季 -愛すれど遠く離れて-』などはその最たるものでしょう。また、恋人の父親に認めてもらうために血みどろの戦いにまで発展するアディティヤ・チョープラー監督作『Dilwale Dulhania Le Jayenge』はインドでは超ロングランの記録を持つ大有名作品です。家族主義を重んじるインドでは父権とは絶対のものであり、そこから生まれる確執・対立を通して、それとどう折り合いをつけてゆくのかが大きなテーマとして取り扱われます。

今作『Sanju』において、サンジャイの父であるスニール・ダットの影はあまりにも巨大です。映画人としても家庭人としてもあまりにも完璧な父と息子サンジャイとの間には確執も対立もありません。サンジャイは父の完璧さに己の卑小さばかりを見出し、その期待の大きさに立ち向かうことも出来ず、ただただひたすら萎縮してゆくのです。そしてその重圧から逃れるために彼が手を出したのがアルコールとドラッグでした。

彼の放蕩生活は止まる所を知りません。経済的に恵まれた家庭であったからこそ逆に歯止めを利かせることもできず、ずぶずぶと爛れたような日々を過ごすのです。その中で恋人ルビー(ソーナム・カプール)との出会いや親友のカムレーシュ(ヴィッキー・コウシャル)の手助けがありこそはすれ、破滅的な性向は決して正されず、遂に彼は己の男らしさを肯定する為に銃器に手を出してしまいます。

f:id:globalhead:20181222181855j:plain

■青春期の生き難さを描く普遍的な青春ドラマ

サンジャイは弱い男だったのでしょうか。クズ男だったのでしょうか。自分にはそう思えません。彼は「父あっての自分」というアイデンティティの脆弱さからなんとしても逃れたかった。「自分」が「自分」でありたかった。彼がその放蕩生活の中で否定し抹殺したかったのは「自分では無い自分」の姿だった。彼のその生活はあまりにも極端でしたが、父親のコントロール下にある「庇護された自己(子供)」から「一個の確立した自己(大人)」へと成長するための途方も無い自己否定、そのあまりにも長い道のりを描いたのがこの作品だったのではないでしょうか。

もうひとつ、これらサンジャイの乱れきった生活の有様から見えてくるのは、これが欧米映画なら意外とよく描かれる光景だな、ということです。『ドラッグストア・カウボーイ』や『トレイン・スポッティング』といった作品は、彼らをドラッグに走らせるものがインドのような「強力な父権」ではなく、もっと漠然とした生活や社会への不安であったりもしますが、こういった「青年期の生き難さ」を描いたものとして同等であるともいえるのです。そういった点で映画『Sunju』はこれら欧米映画と比べても全く遜色の無い「青春の彷徨」を描ききった作品だといえるでしょう。

とはいえ、こういった「青春の彷徨」を描きながらも、物語は決して暗かったり遣る瀬無いもので終始したりはしません。実際のサンジャイ・ダットが現在見事映画界に復帰し、再び華々しいキャリアを復活させているという結末が既に明らかな以上、この物語には明るい未来(現在)が待っていることは誰もが知ることです。「青年期の生き難さ」を経た「青春の彷徨」が辿り着く希望に満ちた「今」。未来は明るいほうがいいし、そして多くのインド映画は、いつも希望の香りに満ちているのです。

f:id:globalhead:20181222181915j:plain


Sanju | Official Trailer | In Cinemas June 28 

愛する妻の為に生理用ナプキンを作った男/映画『パッドマン 5億人の女性を救った男』

■パッドマン 5億人の女性を救った男  (監督:R . バールキ 2018年インド映画)

f:id:globalhead:20181210115213j:plain
アメリカにはスーパーマンがいる。

バットマンスパイダーマンも……

でも、インドには【パッドマン】がいる!

■インドのヒーロー【パッドマン】見参!

スーパーマンバットマンとも並び比されるインドのヒーロー【パッドマン】とは何者なのか。鋼鉄のボディと百万馬力の力とマッハのスピードの飛翔力を持つ男なのか。いや。彼は単なるインドの田舎のオッサンである。では彼はなぜヒーローと呼ばれるようになったのか。なんと彼は、月経で難儀する愛する妻の為に、安価で衛生的な生理用ナプキンを開発しようとした男なのだ。しかし、そのナプキン開発には社会の無理解と前時代的な禁忌という強大な困難が立ちはだかっていた。

映画は、実際に【パッドマン】として知られる企業家アルナーチャラム・ムルガナンダムの苦闘の体験を基に、映画的脚色を幾つか加えながら製作されたセミ・ドキュメンタリーである。アルナーチャラム氏はその功績により『タイム』誌の「世界で最も影響力のある100人」に選ばれ、さらにインド政府から勲章まで授与されることになった。映画では舞台を南インドから北インドに変え、主人公の名をラクシュミとしているが、その他さまざまな人間関係も脚色と考えた方がいいかもしれない。しかしアルナーチャラム=ラクシュミの取った行動とその成果は、現実のものなのだ。この文章ではここから映画の主人公の名ラクシュミで書かせてもらうことにする。

f:id:globalhead:20181208180042j:plain

■高額な生理用品と月経への忌避

ところでここまでの説明が少々分かり難かったと思うが、それまでインドには生理用ナプキンが存在しなかったわけでもないし、ラクシュミがナプキンを”発明”したわけでもない。しかし、この映画の冒頭の2001年の段階で、ナプキンはインドにおいて相当高額な商品だった。主人公が薬局で恐々購入したナプキン1袋が55ルピー、妻はその買い物の高額振りに大騒ぎする。映画パンフレットに書かれているのだが、当時のインドの生活経済感覚で言うと1500円程度になるのらしい。日常的に買って使い捨てする物品の価格ではなかったということだ。ではインド人女性は何を使っていたのかというとボロ雑巾をあてがいそれを何度も洗って再使用していた。新聞紙やおがくずや灰を使っていたともいう。

主人公ラクシュミはその事実に大いに驚愕する。これではあまりに不衛生すぎる、愛する妻の体に何かあったら大ごとだ!と戦々恐々とするのだ。これは別にラクシュミのみが知らなかった事実なのではなく、当時のインド人男性、特に農村部在住の者にとって「女性の月経」に対する認識や理解などほぼゼロに等しかったということなのだ。そしてゼロであったがゆえに全く手を差し伸べられることが無かったのだ。それだけではない。マヌ法典の昔からインド人の心理と生活に刻み付けられてきた「月経=不浄」という認識が、「月経中の女性の隔離」という大時代的な因習となって存在し続け、月経中の女性は離れで寝起きし、触れたり話しかけられもしなかった。もう一度書くがこれは21世になったばかり時代の話なのである。

f:id:globalhead:20181208180116j:plain

■古い因習にがんじがらめになった者たちからの非難

メロメロに愛妻家のラクシュミはこれを不条理で不合理で時代遅れなことと瞬時に判断する。そして愛する妻の為に安価なナプキンを製作しようと立ち上がる。しかしこれを阻むのがまたしても偏見と古い因習に凝り固まった周囲の人間たちの大いなる無理解と蔑視だ。しかも、「妻と多くの女性のために」とやり始めたことが、その「妻と多くの女性」により総スカンを食うのだ。いわゆる、「シモ」の事柄に関心を持ち、その「シモ」のモノを作ろうとするなんて「恥」でしかない!そんなことに興味のある男は変態か悪魔だけだ!と。物語では「(生理用品にかかわって)恥をかくよりは死んだほうがまし」と女性の口から出てくるほどなのだ。

しかし、周囲の風当たりがどんなに強くとも、どんなに蔑まれることになっても、ラクシュミはナプキン開発を止めなかった。仕舞いには、妻を含めた家じゅうの女が家を出てゆき、妻の親からは離婚を強制され、さらに主人公本人も村から出てゆく羽目になるのだが、それでもやはり、ラクシュミはナプキン開発を決して止めようとはしなかった。そして……というのがこの物語だ。まあ「5億人の女性を救った男」という日本サブタイトルの付いているセミドキュメンタリーだから、最後は華々しい成功によって締めくくられるのは既に分かっているお話ではある。この物語はある種「世界偉人伝」とか「美談」とか「サクセスストーリー」といった見方ができるしそういった造りの映画ではあることはある。その功績の在りかたに多くの人は称賛を送るだろうし、少ないかもしれないがシラケる人もいるかもしれない。

f:id:globalhead:20181208180151j:plain

■”モノ作り”の虜になった男の物語

ただ、オレはこの映画を大いに楽しみつつ、しかしこの作品の本質に隠されているのは「モノ作りに憑りつかれた男」の漂泊の物語だったのではないかと思えてしまったのだ。主人公ラクシュミは元から工房を経営する技術屋であり、自分で思いついたものはなんでも作ってしまえる男だった。そんな彼の最新の課題が「生理用ナプキン」の製作ということだったのだ。彼は想像を超える多大な困難に直面し、家族は離散し自らの生活すらもナプキン制作の為に投げうってしまう。これが後に「多くの女性の為となった」ナプキン製品だったからよかったものの、「おなら消臭器」や「性感倍増器」みたいなもっとマッドな製品だったりしたら単なる「おキチガイ様」で終わっていたことだろう。

確かに彼には妻への愛と思いやりがあり、そして高い理想があった。しかしそれと同じくらい、「想定したものが完璧な形で完成する愉悦」を追い求めた技術畑の男でもあったと思うのだ。ひとりの技術屋として、その「愉悦」は替え難いものがあっただろう。これはプロダクツ製作だけではなく、絵や音楽や映像を作ったり、あるいはコードを書くことを愛して止まない人間には共通することではないか。そして多くの困難は逆に、より強固に「完成への夢」へと向かわせていったのではないか。彼はこのナプキンを「金が欲しくて作ったんじゃない」と言うが、それは「善なるもののため」というよりは「作ることが楽しくて楽しくてしょうがなかっただけだから」という解釈のほうが、より人間的なのではないか。

しかしこう書いたからと言ってこの作品を決して貶めたいわけではない。主人公ラクシュミが様々な製造上の困難をクリアさせ「ナプキン製造」というミッションをコンプリートした時の高揚は、「〇〇のため」という義務感使命感を超えた部分にある愉悦ではなかったか。想像力が人間の最も強大な原動力であり、それを形にしようとする行為が人間の最も喜びに満ちた時間であるのだとすれば、この作品は単なる「偉人伝」「美談」を離れ、人間の普遍的な幸福の瞬間に触れたものだと見る事が可能なのだ。

f:id:globalhead:20181208180137j:plain

■仄かなラブストーリー

こういった「ナプキン製造奮闘記」といった物語の流れとは別に、この作品には前半主人公ラクシュミと妻ガヤトリとの家庭的な愛の物語と、後半ではラクシュミの協力者パリーとの淡く仄かなラブストーリーが描かれることになる。特筆したいのはこのパリーとのラブストーリーだ。ラクシュミの情熱と理想に共感した女子大生パリーはラクシュミと行動を共にし、持ち前の機転と行動力でナプキン製造販売の困難を次々とクリアしてゆく。正直パリーという協力者がいなければナプキン製造は危うかっただろう。

垢抜けた都会の娘パリーと無学な田舎のオッサンであるラクシュミはロマンスのロの字もないだろうぐらい不釣り合いだ。しかも別居中で離婚の危機の最中ではあってもラクシュミは妻帯者である。テーマ的にもインド映画的にもそういう展開はないだろうなあ、とは思って観ていたのだが、少しづつふんわりと、二人の心が接近してゆく様子が描かれてくるのだ。でもやはり、それは成就しちゃまずいのだ。その切なさが、この作品を「ナプキン製造奮闘記」だけにとどまらない膨らみのある奥深いものに変えているのだ。

パリーを演じるのは今やインドのトップ女優の一人となったソーナム・カプール。デビュー当時はお人形さんみたいな美人女優だったが、次第に演技の貫録が付いてきており、この作品でもこれまで以上に見せる役どころだった。また、妻ガヤトリ役はこのところインド映画注目株となっている個性派女優ラーディカー・アプデー。昔のボリウッド映画はモデルみたいな女優が多かったが、最近はこんな地に足の着いた女優が増えてきたように感じる。最後になったが主演を演じるのは今インド映画界で最も稼ぐ男、アクシャイ・クマール。彼の演技力ならどの映画も間違いない。監督のR. バールキは『Paa』『Shamitabh』『Ki & Ka』といった実にユニークな視点を持つ作品作りをしてきた男であり、この『パッドマン』でもその監督手腕を大いに発揮している。この作品が単なる「偉人伝」「美談」に収まっていないのもバールキの技あればこそだろう。

物語の冒頭である2001年の段階で、インドにおける生理用ナプキンの使用率は12%のみであった。しかし【パッドマン】の尽力の甲斐あってか、2018年には42%まで普及率が上がる見込みなのだという。


映画『パッドマン 5億人の女性を救った男』予告(12月7日公開)

おフランスまで誘拐に行っちゃうざんす!?/映画『Junga』

■Junga (監督:ゴークル 2017年インド(タミル)映画)

f:id:globalhead:20180730154014j:plain

またもやインド映画上映会行って参りました。タイトルは『Junga』、タミル語のコメディ作品となります。なにしろ南インド映画には暗いオレなので、今回は適当にインチキ臭くまとめておきます。

《物語》主人公はチェンナイに住むしがないバスの車掌さん、ジュンガ。しかしある日彼は自分が祖父から父へと代々続いたヤクザ稼業の倅であることを知ってしまいます。「せやせや!シャッショーサンなんかやってられまへんわ!」早速ヤクザに鞍替えしブイブイ言わせまくるジュンガでしたが、彼にはある夢がありました。それは祖父と父が興し現在廃館となってしまった映画館を再建すること。しかしその映画館は現在の所有者である地元の有力者に解体される寸前です。有力者と掛け合うもけんもほろろの対応、怒り心頭に達したジュンガは有力者の娘を誘拐し脅迫することを計画します。しかしその娘ヤジニの住むのはフランスだったのです!

えーっと最初に書いときますが、出演者、特に主演のヴィジャイ・セードゥパティが物語の最初っから最後までブチキレ気味にわあわあわあわあまくしたてまくり、それだけ台詞が多くなった分英語字幕が相当な量になり、英語に弱いオレは殆ど字幕に付いていけない状態でした……。物語の流れはなんとなくつかめたのですが肝心のコメディ部分が台詞頼りのものが多く、そんな訳ですから周囲のインド人観客は結構エシャエシャ笑ってたのにどこがどう可笑しいのかまるで分かりませんでした。スンマセン。しかし悔し紛れに言っちゃうけどヴィジャイ・セードゥパティ、あんた喋り過ぎだ!

さてこの作品、ハイライトとなるのは娘誘拐に乗り出す後半なんではないか、と勝手に決めつけておくことにします。いや、後半のほうが話の流れやお笑い要素が分かり易かったから。そもそも南インドからフランス・パリまで誘拐に出掛けちゃう、なんていうのもなんかこうとんでもないものを感じますが、これはただ単に監督がおフランスの花の都でロケがしたかった!ぼんじゅーこまんたれぶー!」だけだったのではないかと思います。インド人が何の必然性もなく海外ロケするのにいちいち突っ込んでたらインド映画なんか観てられませんよ。とはいえ言葉の通じないフランスで素寒貧の南インド人ヤクザが右往左往する様は確かに楽しかった。

しかーし!ここで一波乱、ジュンガが誘拐する前にヤジニはイタリアン・マフィアに先に誘拐されるのです!「た、助けなきゃ!いやここはオレが誘拐したことにしちゃおうかな!ラッキー!」おいおいどっちなんだジュンガ!お前は結局なにがやりたいんだ!?どっちにしろヤジニ奪還に乗り出すジュンガですが、敵のイタリアン・マフィアは武装して古城に立て籠もっている!ここでジュンガの大立ち回りだ!なんかカンフーみたいな技みたいのも繰り出してるぞ!ってか、この展開どこかで観たような……これジャッキー・チェンの『スパルタンX』じゃんかよ!?

とまあそんな訳で(どんな訳だ)あっちでドタバタこっちでドタバタしながらしつつも最後に丸く収まり大団円となる本作なんですが、よく分かってない中でも一番よく分からなかったのはこの物語がなぜ刑務所移送中の主人公の回想形式で語られるのかなんですが……あと「記憶力がメチャクチャいい」っていう冒頭の設定って後半なんか役に立ってたっけ……いや字幕ちゃんと読めれば分かったんだよねきっと!

主人公ジュンガを演じるヴィジャイ・セードゥパティとヒロインを演じるサーイシャーです。ヴィジャイさん顔濃いです。サーイシャーさんは美人ですがちょっと老け顔という意見も。

f:id:globalhead:20180730154118j:plain

そして!これが今作の隠れた主人公、ジュンガの相棒を演じるヨギ・バブー!いやーなんというか全方位的に攻めまくってるルックスですね!なんか今回の上映会、このヨギ・バブーのファンがいたのか、彼が登場すると指笛が鳴るんですよ!?あとこのヨギさん、なんか見たことあるなあと思って調べたら、ヴィジャイの『Mersal』や女装コメディ『Remo』、シャンカールの『I』やシャールク&ディーピカー主演の『チェンナイ・エクスプレス』に出演なさってるというじゃないですか。ひょっとしてこのヨギさん、南インド映画に暗いオレにとってラジニの次によく見てる南インド俳優なのか!?

f:id:globalhead:20180730154142p:plain

 

 

サルマーン兄ィの新作インド映画『Race 3』が思いっきりしょーもなかった件について

■Race 3 (監督:レモ・デスーザ 2018年 インド映画)

f:id:globalhead:20180617141604j:plain
本国インドとほぼ同時に日本でインド映画を上映する恒例のインド映画上映会、今回の作品はなんとサルマーン・カーン主演のアクション映画『Race 3』だ!うおおおうこれは大いに盛り上がるね!……とばかりに勇んで劇場に足を運んだんだが、観終ってみるとこれがもう相当しょーーーもない作品で目が点になったまま帰ってきた……。

一応説明するとこの『Race 3』、ナンバリングされている通り「Race」シリーズの3作目という事になっている。1作目『Race』(2008)は監督アッバース&ムスタン、アニル・カプール、サイフ・アリ・カーン主演。続編となる2作目『Race 2』(2013)は監督・主演とも一緒だがさらにディーピカー・パードゥコーン、ジョン・エイブラハムが出演者に加わりこちらは大ヒットした。オレは2作目しか観ていないないんだが「ご都合主義大爆発なお話だったな」程度の感想だった。

そしてこの3作目では監督をレモ・デスーザに変え、サルマーン・カーン、アニル・カプール、ボビー・デーオール、ジャクリーン・フェルナンデスを主演に迎え、前2作とは物語的に繋がっていない作品として作られている。監督であるレモ・デスーザは『ABCD: Any Body Can Dance』(2013)、『ABCD 2』(2015)、『A Flying Jatt』(2016)といった監督作品がありオレ個人はどの作品も嫌いじゃない。

で、今作『Race 3』だが、お話はというと世界を股にかけ武器や麻薬を売買する犯罪帝国を仕切る一家の、陰謀と疑惑と裏切りと愛憎に満ちた、虚々実々の駆け引きを描くところとなる。なにしろアクションはとことんド派手!ダンス・シーンは盛り沢山!物語はどんでん返しに次ぐどんでん返し!といった感じで、こってりたっぷりサービス満点!な作りにはとりあえずなっている。予告編だけ観るなら結構面白そうなのだ。

ところがその満点なサービスのクオリティが低いので目も当てられないのである。アクション・シーンは確かに派手だが演出が一本調子で次第に飽きてくる上、見栄えの良さばかり追求した挙句物語の内容と齟齬をきたしているのだ。ダンス・シーンは監督自身がコレオグラファーでありダンサーであるせいかたっぷり力が入っているのだが、その力み過ぎが仇となり「今時これなの?」と思ってしまうぐらい古臭い演出だ。どんでん返しに次ぐどんでん返しが連続する物語は、どんでん返しそれ自体を目的化してしまったがゆえに人間関係の描き方がどんどん破綻してゆき、だんだんもうどうでもよくなってくる。もはやクライマックスなんてギャグレベルだった。

あとこれは個人的な趣味になってしまうが、悪党ばかりが登場し、その悪党たちがどれだけ悪党なのか描きまくっちゃう物語、というのにあまり食指が動かなかった。悪党同士のロマンチックなダンスシーン見せられても「ほえ?」って思っちゃうよ。サルマーン兄ィに関しても『Bajrangi Bhaijaan』(2015)、『Prem Ratan Dhan Payo 』(2015)、『Sultan』(2016)、『Tiger Zinda Hai』(2017)と立て続けに名作・快作に出演してきただけに、『Jai Ho』(2014)や『Kick』(2014)レベルにしょーもないこの作品への主演はどうにも残念だなあ。とはいえそこは大スター、存在感は確かにあって、決して「観て損した」とまで思わせないのは流石かな。まあ次作に期待、ということで。

www.youtube.com