インド映画を巡る冒険(仮)

以前メインのブログに書いたインド映画記事のアーカイヴです。当時書いたまま直さず転載しておりますので、誤記等ありましてもご容赦ください。

二つの恋の狭間~映画『心~君がくれた歌~』

■心~君がくれた歌~(原題:AE DIL HAI MUSHKIL) (監督:カラン・ジョーハル  2016年インド映画)

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映画『Ae Dil Hai Mushkil』はパリとウィーンを舞台に、二つの愛を通して自分を見つめ直してゆくある男の物語だ。

まずこの作品は『Kuch Kuch Hota Hai』『家族の四季 -愛すれど遠く離れて-』『スチューデント・オブ・ザ・イヤー 狙え!No.1!! 』のカラン・ジョハール監督による最新映画作品であることが一番の話題だろう。出演者にランビール・カプールアイシュワリヤー・ラーイアヌシュカー・シャルマーといったインド映画の大スターたちを揃えているところもカラン・ジョハール監督らしい。ファワード・カーン、リサ・ヘイドン、イムラーン・アッバースといった助演の配役も心憎い。さらにシャールク・カーンやアーリヤー・バットがカメオ出演しているのでこれは観ていて大いに盛り上がるだろう。

物語の主人公の名はアヤーン(ランビール・カプール)。どこぞの大金持ちの御曹司らしい彼はクラブでアリゼー(アヌシュカー・シャルマー)と知り合い意気投合、実は二人には既に恋人がいたが二人ともどもあっさり別れて交際を始める。だがアリゼーが大昔苦しい恋愛をした男と再び出会ってしまい、ここでアヤーンとの恋は終了。傷心のアヤーンは今度は謎めいた美女サバー(アイシュワリヤー・ラーイ)と出会い、共に暮らし始める。とはいえアヤーンはアリゼーへの想いがまだ捨てきれておらず、アリゼーにお互いの新しい恋人も含めて共に会おうと連絡を入れてしまう。

慌ただしくくっついたり離れたりを繰り返す恋愛ドラマである。こういうのを「大人の恋のドラマ」というのかどうなのか、恋愛において甚だしく小心者で奥手であったオレにはよく分からない。というよりも恋愛ドラマとして様々なシチュエーションをありったけ盛り込んでみました、というのが正解なような気がする。にもかかわらず、これだけあれこれ盛り込んでもバランスを崩すことなく綺麗にまとまりを保っている部分に流石大御所監督カラン・ジョハールという気がする。

とはいえ様々なシチュエーションとはいいながら、どことなく既視感の多いものであったのも確かだ。公開日はこの作品よりも後だが、丁度同じ頃にDVDで観た『Befikre』はこの作品と同じように「クラブで知り合った」り「友達以上恋人未満」であったり「元の恋人とダブルデート」であったりするし、過去の恋を語る形式はこれも最近観た『Meri Pyaari Bindu』と一緒だし、物語の中でランビール・カプールが苦しい恋の末にロックシンガーとして大成するなんてェのは彼がかつて主演した映画『Rockstar』と一緒じゃないか。元カノの結婚式を手伝いにいくなんてェ部分は『Raanjhanaa』を思い出したな。おまけにラストなんてアレだしなあ。これで「結婚に反対する親父をやり込める」のパターンがあれば完璧なんだけどな。

様々なシチュエーションと言いながらバリエーションが少ないというか、インド・ロマンス映画において恋愛パターンのストックがすっかり枯渇してしまったのだろうか。まあ、あれだけ作ってりゃなあ……。というより、「新しい恋の形」を提示しているように見えて結局型にはまってしまうのは、ボリウッド映画自体がお国の事情か何かのせいか保守化してきたこともあるんじゃないだろうか。自分は一昨年ぐらいからあまりインド映画を観なくなってきたのだが、国策映画が増えてきたことがその第一の理由で、その余波がロマンス映画にまで波及してきたんじゃないか、というのは勘繰り過ぎだろうか。これじゃあ巷のインド映画ファンの皆さんが「インド映画好きです。ただしサウスのほう」と言ってしまうのも分からないでもない気がする。

とまあこの辺は単に無根拠な決めつけでしかないのだけれども、映画作品自体もとてもよく出来ているし俳優それぞれは嫌味なく演じてるしその分十分見せるものになっているにもかかわらず、観終ってやはりどことなく白々しいものを覚えてしまった。変化球の質にこだわったばかりに直球を出すことが出来ず、だからこそ感情にストレートに訴える部分が見えにくくなっているということがあるのではないか。後に残ったのはひたすらゴージャスに盛り込まれたキャスティングとロケーションとインド人なら誰もが羨むような金の掛かった生活と奔放な恋の在り方だが、それらは目を楽しませはすれ結局空虚にしか思えないのだ。う~んどうしちゃったんだボリウッド映画?


Ae Dil Hai Mushkil | Teaser | Karan Johar | Aishwarya Rai Bachchan, Ranbir Kapoor, Anushka Sharma

思い出に変わるまで~映画『僕の可愛いビンドゥ』

■僕の可愛いビンドゥ [原題:MERI PYARI BINDU] (監督:アクシャイ・ローイ 2017年インド映画)

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ある小説家の男が回想する一人の女性との甘くほろ苦い思い出。映画『Meri Pyaari Bindu』は恋と友情の狭間で揺れ動き、時に交差し時に離れてゆく男女の心の様を描く作品だ。タイトルの意味は『僕の可愛いビンドゥー』。

主演は『Vicky Donor』『Dum Laga Ke Haisha』のアーユシュマーン・クラーナー、ヒロインに『Ladies vs Ricky Bahl』『Kill Dil』パリニーティ・チョープラー。彼女、プリヤンカー・チョープラーの妹さんなんだとか。 監督のアクシャイ・ローイは様々な作品の助監督を経た後短編映画で賞を取り、これが長編初監督となる。

主人公の名はアビマンユ(アーユシュマーン・クラーナー)、彼は成功したホラー小説作家だったが現在スランプに至っており、次はラブ・ストーリーを書こうと決める。そして思いだすのは彼がこれまで最も愛した女性ビンドゥー(パリニーティ・チョープラー)。アビマンユとビンドゥーは幼馴染だった。成長した二人がそれぞれの進路に進み別の土地に暮らすようになっても、別の恋人が出来ても、それでも二人の心は離れることは無かった。そしてある日二人は再会する。

カセットテープ、そこから流れる懐かしの名曲、舞台となるコルカタの古びた街並、そしてタイプライターで綴られる物語、それらがノスタルジックな雰囲気を盛り上げ、主人公の思い出を甘く切なく盛り上げる。主人公アビマンユが回想する"僕の可愛いビンドゥー"は明るく快活で表情豊か、とても懐っこく深い感情を持つ女性だ。そんなビンドゥーを演じるパリニーティ・チョープラーは隣のお姉さんかその妹といった風情の非常に親しみやすいキャラクターを見せ、これはもう確かに可愛らしくて仕方がない。彼女がわあわあ言いながら様々な感情の起伏を演じるのを見れば、きっと誰もが彼女を好きになってしまうだろう。

物語はそんなビンドゥーとアビマンユとの子供時代の出会いから成長し兄弟のように慣れ親しみ、それがいつか愛へと発展し、しかしそこに破局が訪れ……といったことが描かれるが、結局そんな思い出を現在の視点から「そんなこともあったよね」と懐かしく思い出しているだけで、それが現在と未来へと繋がることが無いのがドラマとして弱いのだ。そもそも物語を追ってゆくと主人公アビマンユが、結構自己愛が強く"オレ様"な人間であることが透けて見えてしまう。アビマンユとビンドゥーとの破局はアビマンユの無理解からだったが、それに対する反省が「現在」の時点で描かれないために、結局「自分に都合のいい思い出話を聞かされているだけ」に終わってしまう。

一席ぶつつもりはないが、恋愛はただ男女が仲よくするだけではなく相手に受け入れられるのと同時に自分も相手を受け入れようとすることなのではないか。だがここでのアビマンユは「子供時代から一緒だったし仲良かったから恋愛に発展するのは当然」のように行動するし「恋愛したら結婚するのが当然」とばかりにビンドゥーに結婚を申し込む。けれども、その時ビンドゥーが彼女の夢であった歌手として生きる事の危機にあったことを完璧無視しているのだ。ビンドゥーにとっての問題を、自分にとっての問題と思わない。この思慮の無さ、対話の無さは女性側から「伴侶として不安」と思われても仕方がない。

それらは過去の話であり、つまりは若さゆえの至らなさだということもできるだろう。けれども、そんな経緯があったことを「現在」において「思い出話」で済ませてしまっている。そして「甘く切ない過去」で終わらせてしまっている。これではアビマンユは物語を通して何一つ成長していないではないか。こんなシナリオの拙さがこの作品を食い足りないものにしている。ただ、個々の場面では非常に生活感溢れる描写が印象深く、二人の友人たちや両親の描き方も生き生きしており、さらに歌と踊りのシーンも楽しかったので、ちょっと惜しい作品だな、という気はした。

 

巴里の印度人~映画『ベーフィクレー~大胆不敵な二人~』

■ベーフィクレー~大胆不敵な二人~ [原題:BEFIKRE] (監督:アディティヤ・チョープラー 2017年インド映画)

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 映画『Befikre』はパリで出会った一組のインド男女の恋と友情の行方を描いたロマンチック・コメディだ。

主演となるのは『銃弾の饗宴-ラームとリーラ(Goliyon Ki Raasleela Ram-Leela)』、『Bajirao Mastani』のランヴィール・シン。ちなみにこの2作はオレの大のお気に入りのインド映画で、当然ランヴィール・シンも好きな男優だ。ヒロインは『Shuddh Desi Romance』のヴァーニー・カプール。そして監督があのインド映画に名高い名作『Dilwale Dulhania Le Jayenge』、さらに傑作『Rab Ne Bana Di Jodi』のアディティヤ・チョープラー。タイトルの意味は「気まま、気楽」といった所か。

物語はシンプルでもあり、風変わりでもある。デリーからパリへ仕事と冒険を求めてやってきたスタンダップ・コメディアンのダラム(ランヴィール・シン)はツアーコンダクターを営むインド人女性シャイラ(ヴァーニー・カプール)と出会い、恋に落ちる。しかし共に暮らし始めた二人はダラムの呑気さが祟ったのか程なくして破局、その後は友人として付き合うもダラムにはまだシャイラへの未練があった。そしてシャイラが新しい男性と付き合い始めたことを知ったダラムは自分も新しい恋人を作り、シャイラにダブル・デートを持ちかける。

映画は殆どがパリで撮影され、主人公となるインド人カップルがパリの恋人たちとなってパリの街を闊歩するある意味観光映画的な作品である。冒頭からパリのあらゆる街角でキスをする様々なカップルの映像が挿入されヨーロッパの自由な恋の雰囲気を盛り上げる。そう、この映画のテーマは多分パリジャンのような自由な恋をインド人のカップルが楽しむというものなのだろう。インド人が母国にいたら自由な恋などままならないからだ。だから異国に行って羽を伸ばしたい。インド映画には何の必然性も無く他の国で撮影される作品がよくあるが、この作品におけるパリという舞台は必然だったのだ。

だがこの作品には「自由気ままな恋」への憧れはあっても、「自由気ままな恋」がどんなものなのか実際にはよく分かってない、あるいは体験したことがないことによる、妄想だけで構築されたような上滑りした恋愛描写が目に付いてしまう。ランヴィール・シンのボンクラ演技はコミカルだが同時にコミックの登場人物のように地に足がついていないし、ヴァーニー・カプールは十分魅力的だったけれどもこと恋愛に関してはどこかちぐはぐなキャラクターだった。

例えばカンガナー・ラーナーウト主演による映画『Queen』は、婚約破棄によるヨーロッパ傷心旅行に出かけた主人公がパリやアムステルダムで様々な人々と出会い、様々な価値観や様々な生き方を目にし体験することにより、自分自身もまた新しく生まれ変わってゆくという作品だった。しかしこの『Befikre』においては主人公たちはパリのインド人コミュニティから一歩も足を踏み出すことなく、ただここがインドではないことの開放感のみによって「自由気ままな恋」を楽しんでいる。それはそれで構わないのだけれども、それはインド的恋愛慣習からの逸脱ではあっても、新しい恋愛の形を提示しているわけでは決してない。恋愛する側の内面がまるで変わっていないからだ。

そういった部分でどうにも煮え切らない恋愛描写の続く物語だった。「これからは恋ではなく友情!僕らはもう決して恋に落ちない!」とか誓い合ったりしながら未練たらたらなのがミエミエすぎてどうにも白けるのだ。掛け声だけで気持ちが付いていけていないのだ。これでは「自由気まま」を標榜しながら結局は旧弊な恋愛感情にがんじがらめではないか。ただ、「友情と恋」の新しいバリエーションを模索しようとしているらしいことはなんとなく伝わってきた。「友情から恋」はあっても「恋から友情」へのパターンは少なそうだしね。で、「でも「恋から友情」って、どうしたらいいの?」と持て余しちゃったのがこの物語のシナリオだったんじゃないかなあ。そして「やっぱり恋のほうがいいよ!」とやっちゃう所がインド映画らしいとも言えるのかもしれないな。

インドからの逃走~映画『Badrinath Ki Dulhania』

■Badrinath Ki Dulhania (監督:シャシャンク・カイターン 2017年インド映画)

■結婚を誓った男女のすれ違いを描くドラマ

ヴァルン・ダワン、アーリヤー・バット主演による映画『Badrinath Ki Dulhania』は結婚を誓った男女のすれ違いを描く恋愛ドラマだ。監督はシャシャンク・カイターン。彼は2014年にあの『Dilwale Dulhania Le Jayenge』を換骨奪胎した映画『Humpty Sharma Ki Dulhania』をこの作品と同じ主演男女で撮っており、いわば姉妹的作品として位置づけられるのかもしれない。今回はネタバレ全開で書くのでこれから観ようとしている方はご注意を。

物語前半はインド映画ではあまりにお馴染み過ぎるボーイミーツガールの展開が続く。富豪の息子である主人公バドリー(ヴァルン・ダーワン)はある日ヴァェーデーヒー(アーリヤー・バット)という女性と出会い、一目で恋に落ちる。最初はつれない態度だったヴァェーデーヒーだったが、いつしか二人の心は接近し、遂に結婚へと漕ぎ着ける。だが結婚当日、ヴァェーデーヒーは突然姿を消すのだ。

この前半部は若い男女の恋のさやあてをコメディ・タッチで描き、艶やかな歌と踊りが披露され、インド映画お馴染みの結婚に五月蠅い頑固オヤジの渋面も間に挟みながら、ある意味定番通りの「インド・ラブコメ」の様相を呈している。しかしこれがあまりに定番すぎて、どうにも薄っぺらいものにしか見えず、実に退屈だった。前半部最後に用意されるヴァェーデーヒーの失踪も、実は彼女が仕事を持ち自立した女性としての生活をしたかったからだと明らかにされるのだが、退屈な物語に今風の一波乱を持ち込み目先の新しさを出そうとしたのだろうとしか思えず、正直どうでもよかった。ところがだ。この退屈さは、実は後半部に向けての周到に計算された退屈さだったのだ。

■名誉殺人すら臭わせる異様な展開

後半部が始まると、息子の結婚式を袖に振られ怒り心頭に達したバドリーの父が、騒動の張本人であるヴァェーデーヒーを「天井から吊るすように」見つけてこいとバドリーに命じる所から始まる。ヴァェーデーヒーがシンガポールにいることを突き止めたバドリーは、一路かの地へと向かう。そこでヴァェーデーヒーはキャビンアテンダントになるための訓練を受けていた。バドリーはヴァェーデーヒーを彼女の家の玄関先で拉致し、彼女を暴力的に扱う。その後もバドリーはヴァェーデーヒーの家の前でストーキングしながら、事あるごとに「なぜ俺との結婚を反故にしたのだ」と詰め寄るのだ。

この後半部は前半の能天気な展開から一転、憤怒に我を忘れたバドリーの暴力的な態度と、それをなんとかなだめようとするヴァェーデーヒーの慌てふためくさまがクローズアップされる。前半と後半のコントラストが異常なぐらい違う。バドリーは確かに彼を裏切ったヴァェーデーヒーに怒り狂っていた。しかし同時に、バドリーの怒りの背後には、彼の強権的で男尊女卑的な父親の、家長であり男であることの面子を潰されたことへの怒りが憑依していた。この時バドリーは気付くことも無く彼の父親へと成り代わり、大時代的でしかない男性優位の立場からヴァェーデーヒーを断罪しようとしていたのである。

ここでのバドリーの姿はもはや狂犬だ。かつて愛していた女への同情も理解も無く、ただただ己の都合だけを強要する支配者であろうとする存在だ。なぜなら男は女の支配者であるのが当然だからだ。そして男の言うことを聞かない女を、男に舐めた真似をする女を断罪するのは、インドの男にとって【当為】だからである。そして、この部分におけるバドリーの態度は、そのままインドの悪癖である【名誉殺人】の臭いを濃厚に漂わせ始めるのだ。そもそも、バドリーの父の言説自体が、既に【名誉殺人】をほのめかしていた。この物語はそのような一触即発の暗く狂った情念を孕んでいたのだ。

だがヴァェーデーヒーのたゆまぬ愛情が次第にバドリーの心を融かしてゆく。そして父の憑依が解けたバドリーは、本来彼が持っていたヴァェーデーヒーへの愛を思い出すのだ。これはバドリーから【インド男であることの当為】という洗脳が解けたことだとも思っていい。そして、インドを遠く離れたシンガポールの街で、二人の愛は再び花開くのである。

■インドからの逃走

ヴァェーデーヒーがバドリーとの結婚を反故にし、遠い国へと逃れ去ったのは、それはバドリーの愛から逃れ去ったのではなく、【無理解】と【不寛容】という、インドという国が持つ大時代性からの逃走だったのだ。それは、インド映画によくある駆け落ちですらなかった。何故ならヴァェーデーヒーは愛するバドリーもまた、【無理解】と【不寛容】に塗り固められたインド男性であることが払拭できないままなのを薄々感じていたからだ。

例えば『DDLJ』において、主人公は愛する人の無理解な父をなんとか説得しようと血塗れになるまで尽力していた。『家族の四季』においては、支配的な父親との対立を経ながら恐るべき苦闘の末和解へと漕ぎ着けていた。『2 States』は夫婦それぞれがそれぞれの家族の理解を得ようと奔走していた。たゆまぬ努力はインドにおいてギーター的な美徳であり、和睦へと向かうその物語は感動的だった。だが、【無理解】と【不寛容】それ自体は、時代へ経てもまるで変わることが無かったではないか。であれば、逃走するしかない。それは父権からだけではない。そのような因習を残すインドそれ自体からだ。ヴァェーデーヒーとバドリーは、シンガポールという異国の街で初めてそれぞれのしがらみから逃れ、愛を取り戻す。しかしそれは、若い男女の、インドという国への絶望でもあるのではないか。

物語は、いかにも【物語】らしいハッピーエンドのクライマックスを迎える。ハッピーエンドとは、誰もが幸せになり、誰もが納得づくということだ。そうしなければ【物語】は終わらず、そして金を払って劇場に来た観客は満足しないからだ。しかしオレには、インドの地に再び帰郷したヴァェーデーヒーも、ヴァェーデーヒーとバドリーが結婚しその間に生まれた子に頬を緩ますバドリーの父親の顔も、全てとってつけたような嘘くさいものにしか思えなかった。何故なら、これでは本質的な問題は何一つ解決していないからだ。この物語の真のエンディングは、泥酔して父にも家族にも罵声を上げ否定を突き付けるバドリーの姿で終わるのが適当だったのだ。それは虚無であり絶望である。しかし、若者たちが自らの国インドに感じる心象もまた、虚無であり絶望であったのではないのか。


Badrinath Ki Dulhania - Official Trailer | Karan Johar | Varun Dhawan | Alia Bhatt

◎参考記事 

シャー・ルク・カーン主演映画『ライース』に関するあれこれ

■ライース (監督:ラーフル・ドーラキヤー 2017年インド映画)

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■オレが『ライース』を観ることができるようになるまでの苦闘の歴史(?)

シャー・ルク・カーン主演の映画『ライース(Raees)』は禁酒法の布かれたインドのある州で、密造酒を売りさばき財を築き上げた男の栄光と没落を描くピカレスク・ロマンだ。今回はこの映画の感想駄文と一緒に、私的などうでもいいことを例によってグダグダ書き散らかしたい。(注:2017年に書かれた記事の再録です)

この『ライース』、インドで今年の1月に公開された作品だが、日本でもかのSpaceBoxさん主催の上映会がありインド本国と殆ど同じタイミングで観ることができることとなった。オレも「シャールク御大の新作映画が日本でも上映される!」と喜び勇んでチケット予約したのだが、実はちょうどこの時期に引っ越しを予定しており、相当に忙しかったのだ。結局都合がつかず行くことが出来なかったのである。そもそもこの時期は他の劇場公開映画さえまるで観られなかった。ああ、オレのシャールク、そしてチケット代(2200円もしやがるんだぜ?)……。

そんなこんなで月日が経ち、今度は輸入盤DVDがリリースされることを知る。引っ越しも終わり落ち着いたしやっと観られると思い購入し、早速観始めたのがこれが不良DVDで最初の40分ぐらいでフリーズしまくる。DVD再生機をあれこれとっかえひっかえしても駄目だ(というかPS3PS4とXboxOneとPCだけどね!)。

なんだよ天はどうしてもオレにシャールク映画を観せないつもりなのかとあきらめかけていた所、今度はNetflixで観られるというじゃないか。もともとNetflixはインド映画に力を入れていることは知っていたのだが、いよいよシャールク様が降臨なさるのか。これは嬉しい。しかしだ。オンデマンドは既にAmazonビデオとHuluに加入しているのである。ここにきてさらにNetflixかよ……。ただでさえ少ないオレの貯金が……。

などということを数か月グダグダ悩み続けていたところ、この間シャールク様主演で上映された『ジャブ・ハリー・メット・セジャル』である。これが実に素晴らしかった。

ううむこれはもう腹をくくってNetflixでシャールク様映画『ライース』を観るしかないではないか。というわけで少ない貯金の心配をしつつ(まだ言う)Netflixに加入し(まあ月950円のプランだけどね!)、ここでやっと『ライース』を観ることができた、というわけである(下らない長文失礼しました)。

■極道VS警官、火花を散らす男と男の物語『ライース

さてやっと映画の紹介となる。映画『ライース』は最初にも書いたようにインドの禁酒法がある州で密造酒販売をする男の物語である。禁酒法というとアメリ禁酒法をどうしても連想してしまい、古い時代の物語のように感じるが、この映画は20世紀末のインド・グジャラート州を舞台にしている。近過去なのだ。

実はインドでは禁酒法を布いている州がこのグジャラート州をはじめ幾つかあり、さらに最近では「高速道路沿いの500メートル圏内の飲食店における酒の販売禁止」なんて政令まで施行されたらしい(えっとあの今ザックリググっただけなんでホントはもうちょっと違うかも。インドの事そんな詳しくないっす)。ただやっぱりこの映画みたいに闇酒が出回ったりしているみたいだけどね。

物語は密造酒を売りさばき一代を成した"どてらいヤツ"ライース(シャールク)を主人公とし、彼の子供時代からその行く末までを描くことになる。なにしろ基本が極道の物語なんで、結託と裏切り、抗争と殺戮、贈賄に政治関与と汚れ仕事のオンパレードだ。だが同時に仲間との厚い信頼、妻への愛、周辺住民への慈善行為など、大立者らしい懐の深さもまた描いている。この黒々とした魅力に溢れる不敵な極道者ライースを、シャールクが匂い立つような演技で演じ切っている。要するにカッコイイんですよ。

しかしこんなライースを阻む者がいた。それが警察官警察官ジャイディープ。蛇のような執念でライースを追いつめてゆくこの男をナワーズッディーン・シッディーキーが演じていて、物語に大いなる緊張感を持ち込んでゆく。そしてこのナワーズッディーンがとてもいい。あの表情の無い顔に冷たく光る眼が凄くいい。ナワーズッディーンが演じていなければこの映画は成り立っていなかったんじゃないかと思わせるほどだ。物語はこうして、ライースとジャイディープとが睨み合いながらお互いを出し抜くために様々な画策が成されつつ、クライマックスへと向かってゆくんだ。

■映画『ライース』を観てあれこれ思ったこと

非常にしっかりと作られた、映画ならではの魅力に溢れた作品だった。シャールクもナワーズッディーンもよかったし、ライースの女房役で出演したマーヒラー・カーンもどこか陰りのある素晴らしい女優で、「極道の妻」を堂々と演じていた。手堅く作られている分、"新しさ"といった点では見劣りするかもしれないが、良作であることは間違いはない。ところでこの『ライース』を観ていて、オレはある映画の事を思い出した。それはカマラ・ハーサン主演、マニ・ラトラム監督により1987年に公開されたインド映画『Nayakan』だ。

この『Nayakan』も実は、密造酒を売って一代を成したある極道者の物語であり、そして『ライース』と同じように、貧しい人々に篤志することで絶大な支持を得ていた男の物語なんだ。『Nayakan』自体はハリウッド映画『ゴッドファーザー』の翻案という形を取っていて、『ゴッドファーザー』とよく似た部分を見つけながら観るのが面白かったが、同時にこの物語はボンベイに実際に存在したマフィアのドン、Varadarajan Mudaliarの生涯をモデルにしているという。物語は『ライース』同様、家族との愛、彼を追う冷徹な警察官との確執などを盛り込みながら展開してゆくんだ。

ただ別に『ライース』がこの『Nayakan』を意識していたということもないのだろう。Wikipedia『Raees』によると、『ライース』の物語がグジャラート州出身の犯罪者アブドゥル・ラティフの生涯を下敷きにしているのではないかということも書かれていて(映画製作サイドは否定)、そうするとやはり『Nayakan』の物語とはまた違ったものになる。とはいえ、密造酒を巡る極道物語という類似性が面白かったので参考までに紹介してみた。


Shah Rukh Khan In & As Raees | Trailer | Releasing 25 Jan

 

シャー・ルク・カーン主演のロマンチック・コメディ『ジャブ・ハリー・メット・セジャル』

■ジャブ・ハリー・メット・セジャル (監督:イムティヤーズ・アリー 2017年インド映画)


シャー・ルク・カーン主演のロマンチック・コメディ『ジャブ・ハリー・メット・セジャル(Jab Harry Met Sejal)』を観た。原題は「ハリーとセジャルが出会う時」といったような意味だろう。

シャールクの純粋なロマンス映画は久しぶりかもしれない。シャールクはやはりロマンス映画が似合う。最近のクライム風味の作品が自分にはどうも今ひとつだったので今回は期待大だ。そしてヒロインとなるアヌシュカー・シャルマー、彼女がまたいい。日本では『命ある限り』(2012)、『pk』(2014)の公開作がある。人気実力ともにとても優れたインド女優なのでインド映画ファン以外の方も名前を覚えておくといいだろう。彼女はシャールクとの共演作に先程紹介した『命ある限り』の他にも『Rab Ne Bana Di Jodi』(2008)があり、これも非常に名作で、観ておいて損はない。

監督はイムティヤーズ・アリー。これまで『Jab We Met』(2007)、『Rockstar』(2011)、『Highway』(2014)、『Tamasha』(2015)といった作品を観たことがあるがどれも表現力に優れた秀作を作り上げてきた監督だ。特に『Jab We Met』は最も重要なインド映画10作のうちのひとつに数え上げている評者もいるほどだ。個人的にもどれも思い出深い作品ばかりだが、ランビール・カプールディーピカー・パードゥコーン主演による『Tamasha』は特に好きな作品だ。

さて物語はヨーロッパでツアーコンダクターを生業としているハリー(シャールク)が、ツアー中に婚約指輪を失くしたという女セジャル(アヌシュカー)に絡まれる所から始まる。セジャルは大事な指輪を失くし婚約者にも家族からも激怒を買い、一人ヨーロッパに残ってどうしても見つけなければならないので同行しろという。ハリーとしてはそんなものオプション外だからやる義務はないと突っぱねるが、結局は嫌々ながらセジャルに付き添うことになる。だがオランダのアムステルダムで済む筈だった指輪探しは二転三転し、遂にはプラハ、ウィーン、リスボンブダペストを巡るヨーロッパ大探索の旅へと発展してしまうのだ。そしてその旅の間に、二人の間に仄かな恋心が目覚め始めるが、片や婚約者のいる女性、その恋は決して成就する筈は無かったのだ。

感想を先に書くと、心を揺さぶられるとても優れたロマンス作品だった。やはりシャールクのロマンス作は鉄板と言わざるを得ない。もちろんヒロインを演じるアヌシュカーの表情豊かな演技にも心ときめかされた。最初は嫌々付き合っていたシャールクと相手の迷惑なんて完璧無視なアヌシュカーとのギクシャクしたやりとりは、前半のコメディ要素となり、大いに笑わせながら観る者の心をほぐしてゆく。しかし旅を通じて心寄せ合うようになってゆく二人の、そのあまりに危うい「道ならぬ恋」の行く末を気になりだした時に、物語は辛く心切ないものへと様変わりしてゆくのだ。

最初は相性の悪そうな男女が旅の中で次第に心を通い合わせてゆく、といった物語はインド・ロマンス映画の十八番なのかもしれない。シャールク映画ではあの『Dilwale Dulhania Le Jayenge』(1995)がそうだし、ディーピカー・パードゥコーンとの共演作『チェンナイ・エクスプレス〜愛と勇気のヒーロー参上〜』(2013)もそんな物語だった。しかしそもそも監督であるイムティヤーズ・アリーの作品というのが、【旅とロマンス】を重要なファクターとするものが多く見られるのだ。先に紹介したイムティヤーズ・アリー監督作品4作はどれも【旅とロマンス】に関わる作品だ。その中で特に『Jab We Met』は、「本来ロマンスが生まれるべきではない二人の男女にロマンスが生まれてしまう」といった物語構成から、この『ジャブ・ハリー・メット・セジャル』と大きな共通項を持っていると言えるだろう。

そしてこの作品のもう一つの魅力は、「有り得ない出会いの要素を力技でロマンスとして成立させてしまう」といった点だろう。それは「現実的である」事から大きく飛躍してしまうことを全く意に介さない冒険的な演出である事を意味している。まず失くした指輪をツアコンの男と同伴して、あまつさえヨーロッパ中探し回る女性、といった展開はあまりに有り得ない。飛躍し過ぎだ。そしてそんな同伴を強要しながら「でも恋愛はありえないし!」と言ってのけ、にもかかわらず終始ベタベタしてくるセジャルのメンタリティは、あまりに有り得ない。そんな女性など多分いないか、いてもとんでもない少数派だろう。

ではこの物語というのはひたすら飛躍し過ぎで現実味が無くて有り得ない、ご都合主義のシナリオによって書かれた陳腐なものなのかというとそれが全く違うのだ。ここで描かれるシチュエーションそれ自体は確かに非現実的なものかもしれない。しかしこのシチュエーションから導き出される心情の在り方は、全く有り得ないものではないばかりか、どこか酷く心動かすものを含んでいるのだ。逆に「現実的であること」の拘泥から解放され、「有り得ない事」の可笑し味へと飛躍させることで、想像力豊かに物語を膨らませ、同時に普遍的な心情の物語へと帰結さているのである。そんな自由さに富んだシナリオが面白いのだ。

そしてそれこそが、【物語】というものの、現実を軽く蹴り飛ばす楽しみなのだ。多くの人は、なにも別に、「道ならぬ恋」をしたいわけではない。しかし人は時として、「不可能な恋」に出会ってしまうことがある。そして、どこまでも遣る瀬無い悲しみに堕ちてしまうことがある。『ジャブ・ハリー・メット・セジャル』は、そんな物語なのだ。

巨大アパートに迷い込んだ浮浪者と住民たちとのドタバタを描く傑作クラシック・コメディ〜映画『Jagte Raho』

■Jagte Raho (監督:サンブー・ミトラ、アミット・モイトラ 1956年インド映画)

■非常にユニークな傑作コメディ

1956年にインドで公開されたモノクロ映画『Jagte Raho』は、一人の浮浪者が体験する大騒動の一夜を描いたコメディ作品だ。主演はラージ・カプール、共演としてモティラル、プラディープ・クマール、スミトラ・デヴィ。他にナルギスがカメオ出演する。

《物語》田舎からカルカッタの街にやってきたものの、職もなく住むところもなく夜の通りを彷徨う浮浪者の男(ラージ・カプール)がいた。喉が渇いてどうしようもない彼は、消火栓を弄っているところを警邏中の警官に見とがめられ、慌てて近くの巨大アパートにもぐりこむ。なんとか水を飲めないものか……アパートをうろつく彼は住民たちにコソ泥と間違われ、逃げ出そうとするも今度はアパートから出られない!遂に住民たちは自警団を急ごしらえし、さらには警官隊までがやってきて、上を下への大騒ぎと発展してしまう。頭に血ののぼった住民たちを相手に、浮浪者は逃げ出すすべがあるのか!?

非常にユニークであり、楽しめて、感嘆させられる物語だった。この作品のユニークさは以下の部分にある。

・たった一夜だけの事件を扱った物語である。
・舞台の殆どが1棟の巨大アパートだけに限定されている。
・主人公が殆ど喋らず、パントマイム演技だけで物語を進行させる。
・そういったシチュエーションの中に様々なエピソードを盛り込んだコメディであり、ストーリー自体はさして無い。

こういった骨子を持った作品は、確かに今では珍しいものではないが、これが1956年公開の、インドのモノクロ映画に存在していたという部分に、新鮮な驚きを覚えたのだ。このような作品は昨今のインド映画でもあまり見られないのではないか。

■浮浪者の悲劇?

主人公は農村から大都会にやってきた食いつめ者という設定で、ぼさぼさの頭にぼうぼうの無精ひげ、見るからにみすぼらしく汚らしい格好という、なんだかビートたけし演じる鬼瓦権蔵状態である。しかし実のところ彼は純粋で小心な田舎者でしかないのだ。そんな彼が何もしていないのにコソ泥呼ばわりされ追い回され、涙目になりながら巨大アパートを右往左往するさまが、可笑しくもあり気の毒でもある。しかもそもそもの発端が「水が飲みたい」だけだったということが一層気の毒さを醸し出すではないか。

そんな男をラージ・カプールが熱演するが、これがなんと殆ど言葉を発しないパントマイムだけの演技。貧者のペーソスを描いたコメディという部分からも、これは多分にチャップリン映画を意識したものなのだろう。ラージ・カプールチャップリン好きだったらしく、自らの監督作品でもチャップリン的なモチーフを散見するが、今作の演技もラージ・カプール自身が監督に提案したのかもしれない。そして殆ど喋らないとは言いつつ、クライマックスでは『チャップリンの独裁者』ラストの如き大演説をする部分にまたもチャップリンへの偏愛を感じるではないか。

■住民大パニック!

主人公が迷い込んだ巨大アパートは資料によると200以上の部屋があり、1000人余り住民が住む施設ということになっているらしい。50年代のインドに実際にこのような巨大住宅があったのかどうかは分からないが、あったとするとそれなりの中流家庭が住む住宅施設ということになるだろう。こういった点から、この物語は保守化した中流層の排他性を描いたものと見ることもできる。そしてまた、この作品は浮浪者の目を通し、これら中流層の退廃をもえぐりだすことになる。

それは浮浪者が逃げ込む幾多の住民の部屋で展開する薄暗いドラマだ。ある部屋では金に困った男が眠っている妻の装飾品を奪おうとし、またある部屋では密造酒を作っている男がいる。そしてまたある部屋では組織ぐるみの偽札作りまで進行しているではないか。浮浪者一人にパニックを起こし、全アパート住民挙げての自警団を組織し、軍隊よろしく隊列を組んで廊下を進む姿などは、滑稽であると同時にうっすらとした狂気さえ感じてしまう。こうしてこの物語は浮浪者の逃走劇のみに留まらない多面的な物語構造を成すことになるのだ。

とはいえ、こういった人間たちの馬鹿げたドタバタこそが面白い物語でもある。インドのモノクロ・クラシック作品というと少々敷居が高く感じるかもしれないが、この『Jagte Raho』は誰でも楽しめるシンプルなコメディ作品であること、インド映画界の名優ラージ・カプール主演作品であり、その演技の素晴らしさはお墨付きであること、などを鑑みるなら入門編として最適なのではないか。古い作品ということもあり腹を抱えて大爆笑、という類のものではないが、非常に味わい深い含みを持ったコメディ作品として是非お薦めしたい。