Ghajini (監督:A・R・ムルガダース 2008年インド映画)
髭面に坊主頭、その頭には大きな傷があり、筋肉隆々とした肉体は入れ墨だらけ、そんなアーミル・カーンが鬼のような形相でこちらを睨んでいる…映画『Ghajini』のポスターからは、ただ事ならぬ雰囲気がひしひしと伝わってきます。この男は誰なのか?なんでこんなおっかない顔してこっちを睨んでいるのか?そしてタイトル『Ghajini』とはどんな意味なのか?「いや~すっごいコワイ映画だったらどうしよう…」と小鹿のように震えながらオレはDVDを観始めたわけですね!するとこれが、悲しい過去を背負った男の、憤怒と狂気に溢れた復讐の物語だったのですよ!
男の名はサンジャイ・スィンガーニヤー(アーミル・カーン)。彼はある暴行事件に遭い、頭を強打された挙句、「15分しか記憶を維持できない」後遺症を負ってしまいます。15分しか記憶の持たない彼は沢山のメモや写真を持ち歩き、その都度自分の記憶を呼び戻し、なんとか日常生活を続けていました。そんな彼に興味を持ったのが医学生のスニーター(ジヤー・カーン)。研究の一環としてサンジャイに近付いたスニーターでしたが、徐々にサンジャイの幸福だった過去と恐ろしい悲劇の真相を知ることになるのです。それはサンジャイの、かつて大企業のCEOとして前途洋々の未来が開けていた日々、彼が知り合い愛しあった女性カルパナ(アシン)の優しさと素晴らしさ。しかしその彼らをある日、冷酷な人身売買組織の魔の手が襲うのです。全ての幸福を奪われ、脳に障害を持ったサンジャイ。しかし彼は、たったひとつのことだけは決して忘れませんでした。それは、「Ghajini」という男に血の復讐を遂げること。サンジャイはこの名前だけを頼りに、復讐の鬼となって殺戮を開始するのです。
「15分しか記憶を維持できない」脳障害、という設定から、『ダークナイト』のクリストファー・ノーラン監督が2000年に製作した『メメント』という作品を思い出された方も多いかと思います。『メメント』ではストーリーの時系列を逆に描いてゆくというトリッキーな構成が特徴的でしたが、この『Ghajini』ではポラロイドカメラやメモ、体に施す入れ墨といった形で記憶を保持しようとする主人公、といった部分は似ていても、この設定自体をテーマにしたものではなく、むしろサスペンスを高める為、あるいは物語のユニーク化を図る為、といった形で設定が持ち込まれます。その為、時々「もう15分ぐらい経ってる筈だけどまだ記憶そのままっぽい」なんて部分もありますので、この辺はあまり厳密に観ないほうがいいでしょう。
その代わりこの物語で大きくクローズアップされるのは、幸福だった過去の描写と、それが無慈悲に打ち砕かれてゆく悲劇、というあまりに残酷な展開です。そして復讐鬼と化した主人公の恐るべきバイオレンス描写と、彼が標的とする犯罪組織の恐怖です。記憶喪失患者の復讐劇、というとジョニー・トーが監督した2009年の香港/フランス映画、『冷たい雨に撃て、約束の銃弾を』がありましたが、この『Ghajini』にも「苦痛や絶望の記憶すらも喪失しているにも関わらず、その苦痛と絶望を無理矢理思いだし、血を吐く思いで標的に近付いてゆく主人公の切なさ」といった部分があります。
この映画で何がスゴイって、なにしろアーミル・カーンのキャラ分けぶりでしょう。復讐鬼として生きる彼はゴリラのような筋肉と入れ墨だらけの体、痛々しい頭の傷と狂気の宿った瞳、という鬼気迫る容貌なんですが、CEOとして過ごしていた頃の彼は、粋なスーツをさらりと着こなし、柔らかな笑みを浮かべ優しげに語りかけるスマートな男なんです。映画を観るとこの対比に驚かされることでしょう。そして悲劇のヒロイン・カルパナを演じるアシンも、妖艶な美女の多いインド女優とはまた違う爽やかな軽やかさを感じさせる美人女優です。一方医学生スニーターを演じるジヤー・カーンはアシンの陰に隠れた形となり、魅力を発揮できていないように思えました。あと、音楽を担当するのはあのA・R・ラフマーン。
ところで映画の構成を見て気付いたのですが、「ある事件の起こった後に存在する現在」が最初に描かれ、その「ある事件」を振り返る形で過去を描き、それを踏まえた形で再び現在を描く、といった構成というのはシャー・ルク・カーン主演の『命ある限り』や、アーミル・カーン主演の『きっと、うまくいく』あたりでも見られ、その他最近視聴したインド映画でもそういった構成のものがあったような気がするのですが、これはインド映画のお家芸って所なんでしょうかね。この構成だと尺も長くなりますが、2本分の映画を見せられているような大盛り感がありますね!