インド映画を巡る冒険(仮)

以前メインのブログに書いたインド映画記事のアーカイヴです。当時書いたまま直さず転載しておりますので、誤記等ありましてもご容赦ください。

道化師が回想する3人の女性との愛〜映画『Mera Naam Joker』【ラージ・カプール監督週間】

■Mera Naam Joker (監督:ラージ・カプール 1970年インド映画)

■1人の道化師と3人の女

別々の場所に住む3人の女性に小さな小包が届く。それには道化師の人形が包まれており、添えられた手紙には「私の最後のショウに招待します、来てくれるかい?私の名はジョーカー」と書かれている。3人は各々伴侶を連れ、あるいは一人で、そのサーカスに赴く。そして登場するのは初老の道化師、彼はおどけた調子で彼の大きなハートについて歌い踊りだす。会場の袖ではサーカス関係者が「彼の体はもう持たない、ショウを止めさすべきだ」と話している。しかしもう一人が「彼はエンターティナーだ、彼はここで生き、ここで死ぬんだ」と呟く。

1970年にインドで公開された『Mera Naam Joker』は一人の道化師と彼がその人生で出会った3人の女性との愛の想い出を描いた作品だ。主演、監督にラージ・カプール。3人のヒロインを演じるのはシミ・ガーレワール、クセニヤ・リャビンキナ、そしてパドミニ。また主人公の少年時代を今作品がデビューとなるリシ・カプールが演じている。

■3つの愛

第1の愛......女教師マリー
小学校に通うちょっとおどけた少年ラジュ(リシ・カプール)の憧れは女教師のマリー(シミ・ガーレワール)だった。だが彼女には婚約者がいた。ここでは同時に、ラジュの亡き父が実はサーカス道化師だったことが物語られる。ラジュの母は夫を死に追いやった道化師の仕事を憎んでいたが、ラジュは逆に道化師に憧れを抱くようになる。

少年の大人の女性への甘酸っぱい憧れ。厳密には「愛」と呼ぶものではないにせよ、少年の日の想いを瑞々しく描いていて印象深い導入部だ。舞台となる学校は欧風であり、生徒はシャツにズボンの制服、女教師もワンピース姿で登場し、キリスト教教会ももう一つの舞台となる為、全体的に脱インド的な印象を感じさせる。

そして女教師役のシミ・ガーレワール、彼女が相当に美しい。最初はヨーロッパ女優かと思ったぐらいだ。こんな美しい担任教師がいたら心ときめかさないわけがない。そしてこの作品で特筆すべきは彼女のオールヌードが登場することだ。遠景、背後からではあるし、代役かもしれないが、インド映画としては当時ですら衝撃的だったのではないか。このシーンは水に落ちたマリーが物陰で着替えする場面を見てしまったラジュが、それにさらに妄想で補完するといったものだが、少年の性の芽生え、ときめきと後ろめたさを描くシーンとして効果的だった。同時に、ラージ・カプル監督の映画的サービス精神もここにはあるのだろう。

この「第1の愛」では少年ラジュがこれからの人生で出会う愛の形の定型が既に出来上がっている。それはラジュが相手から愛されながらも、やむにやまれぬ理由から別れざるを得ないというものだ。また、女性に道化師の人形をプレゼントするが最後には返される、というのもここから繰り返される。

第2の愛......曲芸師マリーナ
成人したものの大道芸をするしか職もなく、街をうろついていたラジュ(ラージ・カプール)は、ひょんなことから紛れ込んだサーカスでサーカス団員に迎え入れられる。そこでラジュはロシアから客演で来ていた空中ブランコの曲芸師、マリーナ(クセニヤ・リャビンキナ)に恋をする。言葉の通じない二人だったが、その距離は少しづつ近づいて行った。しかしマリーナがロシアに帰る日がやってくる。

この"第2の愛"でラジュは自分の道化師としての人生を決定付ける。主演のラージ・カプールは自らのチャールズ・チャップリン愛を大いに発揮し、次から次にコミカルな演技を連発して楽しませてくれる。また、サーカス・ショウとインド映画独特の歌と踊りが組み合わされたシーンはこの中盤は作品の最大のハイライトとなるだろう。

ここでヒロインを演じるクセニヤ・リャビンキナ、これがまた美しい。ロシアからやってきた曲芸師という役だが、実際にモスクワ生まれのロシア人女優なのだ。1967年から何作かのロシア映画で活躍していたが、2009年に『Chintu Ji』で再びインド映画に出演を果たしている。インド映画出演のロシア女優というのもちょっと珍しいかもしれない。この彼女演じるマリーナとラジュが、お互い言葉の通じない同士、なんとか相手とコミュニケーションを取ろうとお互いがお互いの言語を勉強しあうというシーンには心ときめかされるものがあった。

さらにこの章の冒頭では1995年のラージ・カプール監督作『Shree 420』のダイジェスト映像が挿入され、『Shree 420』の主人公である貧しい青年ラージの人生とこの作品の主人公ラジュの境遇が重ね合わされる部分が面白い。

第3の愛......踊り子ミーヌー
サーカス生活に絶望しまたも彷徨っていたラジュは、海辺で奇妙な少年と知り合い二人は共同生活を始める。だがそれは男装した少女ミーヌー(パドミニ)だったのだ。驚いたラジュだったが結局二人の生活は続くことになり、そして踊りの才能があったミーヌーは次第に世間に認められるようになってゆく。だが華やかな世界へ旅立った彼女とラジュとには次第に隔たりが生まれて行った。

この"第3の愛"では貧しいスラムが舞台となり、ここにきてやっとインド映画らしい情緒に包まれることになる。踊りと音楽、それに合わせた衣装と踊りの舞台も濃厚にインド映画的なきらびやかさであり、これはそれぞれの愛を異なった雰囲気で描こうとした監督の思惑なのだろう。

ここでのヒロイン、パドミニが異色だ。最初は少年として登場するが、女性と分かってからも暫くは少年らしいベリーショート、その後はせいぜい肩までぐらいの髪の長さで、踊り子として大成する頃にやっとロングになる。インド映画ヒロインでショートヘア姿で登場する女優というのはひょっとしたら当時でも珍しかったのではないかと思う。

この章のモチーフとなるのはチャップリン『ライムライト』である。ここでは『ライムライト』と同じく、ショウビジネスに就くことのできなかった女性を道化師である主人公が助け、女性は喝采を浴びるようになるが主人公はそこでフェードアウトしてゆく。「ライムライト=舞台照明、名声」のもたらす光と影を描いたチャップリン作品を、同じくエンターティンメントの世界に身を置くラージ・カプールは心から愛していたのだろう。

マリー、マリーナ、ミーヌー
この3人の女性の名前が、それぞれマリー、マリーナ、ミーヌーと、多分同じ名前の3つの呼び方になっているのだろう部分が面白い。インド映画ではキリスト教ムスリムヒンドゥーでそれぞれ名前の呼び方を変える、というのを見たことがあるが、今作でそれが踏襲されているのかは自分には分からない。どちらにしろ、共通点のある名前の3人の女性、というのは、単なる語呂合わせだとしても、実は女性は3人でも愛はたった一つ、という意味なのかもしれない。

■全ての人生はこの舞台の上

こうして観てみると、監督ラージ・カプールが、自らのショウビジネス人生を、道化師の姿になぞらえて描いた作品と思えないことも無い。まあラージ・カプール自身は華やかな映画一家の出だから、女性関係は多かったかもしれないが、貧しさなどを味わったことがあるかどうかは分からない。しかしこの映画の主人公ラジュのような、ショウの世界に生きる者の哀歓を描くことは、一人の映画監督、俳優として大いに感情移入する余地があっただろうことは想像に堅い。

とはいえこの作品から感じるのは、これまでのラージ・カプール監督作品の問題提起の在り方とはまた違う、徹底した娯楽性だ。主人公を道化師とし、主な舞台をサーカスに持ってきて、さらに3人の女性との愛をオムニバスのように描く。所々にはっとさせるようなお色気を挟み、笑いと涙で物語を閉じる。十二分に楽しませてくれる娯楽映画作品だが、テーマ性は薄い。愛についての取り扱いも、ショウビズへの想いも、個人的なもののように感じてしまう。こうした作品を作ることが出来たのは当時はラージ・カプール監督だけだったのかもしれないが、ラージ・カプール監督だからこそ、もっと大きなテーマを期待してしまったのは期待のし過ぎだろうか。まあこれも重箱の隅のような話で、よく出来た傑作であることは変わりない。

■DVDランニングタイムの謎

なお、この作品は本来の上映時間を255分とする情報(Wikipedia)と224分とする情報(IMDb)がある。どちらにしろ4時間近くあったため、上映に際して2回のインターバルを設けたという。さらにWikipediaによるとDVD化にあたってYash Raj Films Home Entertainment版で233分、Shemaroo Entertainment版で184分にカットされている、となっている。自分はそういった事情を知らずにShemaroo版を購入して視聴したため、今回の記事は184分版の感想ということにさせていただきたい。そもそも1時間近くカットされた作品の感想なので、あまり参考にならないかもしれない。ただし現在手に入り易いのはShemaroo版であるのも確かだ。ちなみに↓の黒い枠のDVDがYash Raj Films版、赤い枠のDVDがShemaroo版となる。