インド映画を巡る冒険(仮)

以前メインのブログに書いたインド映画記事のアーカイヴです。当時書いたまま直さず転載しておりますので、誤記等ありましてもご容赦ください。

凌辱の村〜映画『Nishant』【シャバーナー・アーズミー小特集】

■Nishant (監督:シャーム・ベネガル 1975年インド映画)


ありふれた一組の夫婦が教師としてやってきたその村は、傲慢な領主が村人たちを非道に扱う無法の地だった。そして悲劇が起きる。1975年にインドで公開された映画『Nishant』は、インド農村部の暗部を描く社会派作品である。主演は『Ankur』(1974)、『Arth』 (1982)、最近では『Neerja』 (2016)の出演でも知られるシャバーナー・アーズミー。共演としてギリシュ・カルナド、スミータ・パテル、インド映画の名悪役アムリーシュ・プリー、そして相当若くて最初は気付かなかったナッスルディーン・シャー。監督は『Ankur』、『Manthan』 (1976)、『Bhumika』 (1977)で知られる社会派シャーム・ベネガル。

《物語》インドのとある貧しい村。その村を、領主ザーミンダール(アムリーシュ)と彼の兄弟たちは勝手放題に治めていた。村人たちは彼らの暴虐をただうつむいてやり過ごすだけだ。ある日その村に、学校の校長に任命された男が家族を連れて赴任してくる。ザーミンダールの弟ヴィシュワン(ナッスルディーン)は校長の若い妻スシーナ(シャバーナー)の艶めかしい肉体に情欲を掻き立てられ、遂に家に押し込み彼女をさらってしまう。目の前で妻を誘拐された校長は村人たちに助けを求めるが誰一人応じず、村役人も警察さえも彼の訴えを無視した。しかし、絶望に打ちひしがれる彼に村の古老である司祭がある考えを持ちかける。

舞台は傍若無人な領主一族が治める封建的な村だ。村の全ては村人も含めて彼らの所有物なのだ。思うがままに税を取り立て、奪いたいものがあれば奪い、気に入った村女は命令ひとつで寝床に来させる。村人たちは萎縮しながら、それをどうしようもないことだと受け止めて生きる。それはあたかも中世がそのまま残ってしまったかのような世界だ。そんな村に、外の世界から、何も知らずにある一家が訪れる。夫が教育者であるということは、教育も高く、モラルと法がなんであるのかを知り、理想や希望を持って生きる、現代的な人物なのだろう。そしてその妻も、そのように生きてきた女性なのだろう。そんな彼らが、あり得る筈のない支配の中に取り込まれる。その恐怖がこの物語なのだ。

インド地方の農村地帯に残る時代錯誤的な無法さを描いたこの物語は、ある一端は真実かもしれない。この『Nishant』自体事実を元にして製作されたというし、インド地方で起こった"名誉の殺人"に巻き込まれた都市部住人の恐怖を描いた『NH10』(2015)や嬰児殺しを描いた『Kajarya』(2015)のおぞましさは記憶に新しい。しかし、あたかも中世然としたこれら因習や封建制は、インド古代から連綿として存在したものなのかというとそうではないらしいのだ。カースト制度にしてもそうなのだが、これらは全てイギリス統治時代の圧政の中で「伝統化」され民衆に刷り込まれてしまったものらしいのだ。

例えば今作における「強欲な領主と虐げられた農民」という構図の真相は、以前このブログで書いたのだがこういった事情によるものだという。

実は18世紀では農民は武装しており、さらに非定型的な流動性を持っていて、よりよい労働条件を求めて移動していたというのだ。労働条件が酷ければ逃げ出せばいいのである。これが覆されたのが近代におけるイギリス支配時代で、イギリスによる定住農耕化が推し進められたが故の「強欲な領主と虐げられた農民」という構図というわけなのだ。

つまりこの作品で描かれる一見後進的に見えるインドの姿というのは、それが中世からいまだ残る因習からなのではなく、実はインド近代におけるイギリス統治が残した"ひずみ"から引き起こされたものであると言うことができるのだ。そういった目で観ると、この作品の異様さは別の意味を帯びてこないだろうか。

映画作品として見ると、「虐げられた農民が最後に……」という、いわゆる"原因から結果まで"の流れがストレート過ぎ、味わいが薄いという難こそあれ、不条理極まりないラストの凄まじさは出色と言えるだろう。そしてやはり主演のシャバーナー・アーズミーだ。インド映画界の中でも彼女はしっかりとした存在感と演技力を持つ優れた女優の一人であろうと思う。それと、どことなく艶めかしいところがいい。アムリーシュ・プリーは上半身裸の描写が多く、アムリーシュ・ファンには垂涎だろう。また、若き日のナッスルディーン・シャーの、その徹底的な小者演技は、将来の名俳優の片鱗を確かにうかがわせた。