インド映画を巡る冒険(仮)

以前メインのブログに書いたインド映画記事のアーカイヴです。当時書いたまま直さず転載しておりますので、誤記等ありましてもご容赦ください。

地中海クルーズ船を舞台にした群像劇〜映画『Dil Dhadakne Do』

■Dil Dhadakne Do (監督:ゾーヤー・アクタル 2015年インド映画)


『Dil Dhadakne Do』は地中海クルーズ船に乗り込んだ複数の家族と男女が織り成す群像劇です。この作品、なんといってもメンツが豪華。アニル・カプール、ランヴィール・シン、プリヤンカー・チョープラー、アヌーシュカ・シャルマー、ファラハーン・アクタールといったそうそうたる出演陣に加え、アーミル・カーンがナレーションを担当しているんですね。監督は男3人のスペイン旅行を描き高い評価を得た作品『Zindagi Na Milegi Dobara』(レヴュー)の ゾーヤー・アクタル。

《物語》アイカ社を所有する実業家のカマル(アニル・カプール)は妻ニーラム(シェファリ・シャー)、娘のアイシャ(プリヤンカー・チョープラー)、息子のカビール(ランヴィール・シン)、犬のプルート(声:アーミル・カーン)といった家族をもうけていたが、彼の会社は倒産の危機に瀕しており、家庭では妻ともうまくいっていなかった。また実業家として独立したアイシャは離婚を考えており、カビールは跡継ぎに目されていたが、本人は微妙に不満を抱えていた。そんな彼らはカマルの結婚生活30周年を祝う地中海クルーズに参加する。そこでアイシャはかつての恋人サニー(ファラハーン・アクタール)と出会い心が揺らぎ、カビールはダンサーのファラー(アヌーシュカ・シャルマ)と知り合い自由な人生を夢見始めていた。そしてカマルは突然の体調不良に倒れる。

えーっと最初に書いちゃうと…退屈でした。3時間近くある作品なのですが、インド映画の3時間なんて山あり谷ありの盛り沢山で全然苦にならないのに、この作品は「早く終わんないかなあ」と時計ばかり気にして観てしまいました。豪華クルーズ船を舞台に名作映画『家族の四季 愛すれど遠く離れて』(レヴュー)と同じことをやりたかったのでしょうが、『家族の四季』とは雲泥の差です。まず「フォーブス誌のトップ10に数え上げられる資産家一家の物語」というのにまるでリアリティを感じることができず、興味が湧かなかった。『家族の四季』も同じく富豪一家を描いた作品なのに相当面白く観られたことを考えると、そもそもの描き方が悪いのでしょう。比べるなら、『家族の四季』が王族の如き煌びやかさの中に普遍的な家族の問題を描こうとしていたのに対し、この『Dil Dhadakne Do』はバブリーな金満一家の安っぽいソープオペラ程度にしか見えないんです。あと、この作品をコメディ・ドラマとして紹介しているサイトもありましたが、コメディ要素は殆どありません。

この作品はいわゆる群像劇として、カマルとその妻、娘アイシャと夫、その昔の恋人、息子カビールと新しい恋人、さらに幾つかの人間関係が盛り込まれます。群像劇はこういった様々な人間関係が互いに干渉しあい、大きなうねりとなって一つのドラマとして結びついてゆくものなのですが、この作品においてはただ羅列されているだけで、視点があちこちに飛び、まとまりを感じさせません。さらに拙いのがしつこいほどのナレーションの多用。これは"犬"の呟きとして表現されるのですが、正直このナレーションがなくとも物語は理解出来るし、単なる説明過多にしかなっていないんです。そして登場人物たちの状況と情緒がいちいち言葉で説明されるため、押しつけがましく感じさせるんです。これ、長尺で複数の人間関係を描くのに、映像だけでは全てを上手く説明できないと感じた製作者側の自信の無さの表れだったんじゃないでしょうか。

とはいえ、登場人物を演じる個々の俳優たちはそれぞれに素晴らしい存在感を醸し出していました。むしろ、平凡な演出が俳優たちの個性と演技力に追いついていないとすら感じました。また、たとえば物語を自由を求めるカビールと自由な女ファラーの関係のみに絞って描くなりしたほうが、物語テーマそれ自体をもっと深くシンプルに描き出せたと思います。監督ゾーヤー・アクタルは『Zindagi Na Milegi Dobara』において、スペイン旅行に赴いた男性3人のそれぞれのドラマを描き成功を収めましたが、それはスペインという異国の非日常性が物語を大きく牽引したからといってもいいでしょう。ゾーヤー・アクタル監督はこの『Dil Dhadakne Do』でもクルーズ船内という非日常空間の中でドラマを描こうとしますが、実の所クルーズ船内である必然性の感じないドラマに終わってしまっています。これは描きたい事に監督の力量と作話能力が追いついていなかったからなのではないでしょうか。