インド映画を巡る冒険(仮)

以前メインのブログに書いたインド映画記事のアーカイヴです。当時書いたまま直さず転載しておりますので、誤記等ありましてもご容赦ください。

辺境の地を訪れた男女を襲う暴力の恐怖〜映画『NH10』

■NH10 (監督:ナヴディープ・シン 2015年インド映画)


「NH10」とはインドの国道10号線(National Highway 10)を指し、それはデリーから始まりインド北部パキスタン国境近くのパンジャーブ州ファジルカまで続く403キロの道路である。映画『NH10』は旅行に出掛けていたカップルがこの国道10号線で出遭った恐ろしい出来事を描くサスペンス・スリラーだ。主演は映画『pk』への出演で今乗りに乗っているアヌシュカー・シャルマー、共演はニール・ブーパラム。

《物語》都会で暮らすミーラー(アヌシュカー・シャルマー)とアルジュン(ニール・ブーパラム)の夫婦は休暇を利用して車の旅に出ていた。彼らは途中立ち寄った食堂で若いカップルが男たちに暴行を受け車で連れ去られるのを目撃する。止めに入ろうとして殴打されたアルジュンは腹の虫が収まらず、ミーラーの制止も聞かずに男たちの車を尾行する。そして今まさに殺害されようとしているカップルを発見するが、ミーラーたちは姿を見られてしまい、しかも車は使えなくなっていた。怒り狂う男たちに追跡され、ミーラーとアルジュンはどことも知れぬ土地を逃げ惑い続ける。

安全で快適な都会を一歩離れ、辺境へと車で訪れた男女が、文明果つるかのようなその土地に住まう者たちによって、暴虐と死の恐怖にさらされる。これは『悪魔のいけにえ』をはじめとするアメリカのスラッシャー・ホラー作品の常套的なプロットではないか。こういったプロットを持つスラッシャー作品の本質にあるのは都市部と地方との乖離だが、それは都市部の文明化に置き去りにされたその土地ないし集落に特有の不合理な因習や習俗に負う部分が大きいだろう。それはある種の【野蛮さ】だ。文明化された暮らしに慣れ親しんでしまった者にとってその野蛮さは恐怖へと繋がるだろう。そしてそれは暴力性のみならず対話や理解が一切不能であるという恐怖であり、しかもそれが、自国内に存在しているという不気味さでもあるのだ。

インドのホラー映画は殆ど観ていないので分からないが、このようなプロットを持つ作品が作られ、しかもそれが有名女優を主演に据え製作される、というのはインド映画では案外と珍しいのかもしれない。都市部に住むインド人が、僻地の集落に住まうインド人の野蛮さと暴力にさらされる、というストーリーは、彼らがその国内に内包する野蛮さへの忌避と嫌悪を娯楽作品としてあからさまに映像化したことに他ならないのではないか。その野蛮さは、単に頭の弱い野卑な田舎者どもが暴虐を振るうといったものではない。ではその忌避と嫌悪の対象となったインドの野蛮さとはいったいなんだったのか。それは「名誉の殺人」と呼ばれる行為である。

劇中「アンベードカル」の名前や「マヌ法典」といった単語が出てくる。ビームラーオ・アンベードカル博士はインドの政治家、思想家であり、インド憲法の草案作成者であると同時に、反カースト(不可触賎民〈ダリット〉改革)運動の指導者でもある。「マヌ法典」は紀元前2世紀から紀元後2世紀にかけて成立したと考えられている聖典だが、アンベードカル博士はそのマヌ法典が不可触民への過酷な扱いへの大きな根拠になっていると考え焚書した*1。しかし物語ではアンベードカル博士の起草したインド憲法など手の届かず、むしろマヌ法典定める厳格なカースト制度を支持する者たちの住むコロニーが登場し、そこでカーストを無視した男女同士の関係を家族が死によって購わせる決まりがあることが描かれるのだ。これは「名誉の殺人」と呼ばれるもので、女性の婚前・婚外交渉(強姦の被害による処女の喪失も含む)を女性本人のみならず「家族全員の名誉を汚す」ものと見なし、この行為を行った女性の父親や男兄弟が家族の名誉を守るために女性を殺害する風習のことである。インドの名誉殺人の犠牲者数は年間数百〜千人ともいわれている*2

物語は前半、主人公らが迂闊に暴漢どもに接近してゆく描写、どことなく愚鈍そうなその暴漢、典型的すぎるスラッシャー・ホラー展開など、このジャンルが好きなすれっからしのホラー・ファンだったら凡庸に感じるかもしれない。実際オレもそうだったが、しかし一般の方ならインド映画らしからぬ異様な雰囲気に固唾を飲んで見守ることになるだろう。そしてどんどんと追い詰められてゆく主人公、警官すら手を出せない治外法権の中にある村落、そしてインドのある種の現実がそもそもの発端であることが明るみになるにつれ、単なるスラッシャー作品にはない重さと凄みが増してくるのだ。クライマックスの凄惨さはホラー映画ファンでも溜飲が下がるだろう。まあホラーではなくサスペンスなのだが、ホラーと言ってしまいたくなるような暗闇がこの物語にはある。