インド映画を巡る冒険(仮)

以前メインのブログに書いたインド映画記事のアーカイヴです。当時書いたまま直さず転載しておりますので、誤記等ありましてもご容赦ください。

熱烈な映画オタクが繋ぐ分断した二つの国家~映画『Filmistaan』

Filmistaan (監督:ニティン・カッカル 2014年インド映画)


インド人映画助監督がパキスタンムジャーヒディーン(聖戦士)の村に拉致され、明日をも知れぬ日々を過ごしていたが、「映画」を通じて次第にお互いの心を通わせてゆく、という物語である。

冴えない風貌ながら映画愛だけは人一倍強いサニー(シャリーブ・ハーシュミー)は、ドキュメンタリーを撮りに来たアメリカ人撮影クルーに助監督として参加し、インド・パキスタンの国境近くを訪れる。しかし夜半一人でいたサニーは、アメリカ人誘拐を狙ったムジャーヒディーンに間違えて拉致され、そのままパキスタンの小さな村に軟禁されてしまう。まんじりともしない日々を過ごすサニーだったが、その村にインド映画の海賊版ソフト販売を生業とする男、アーフターブ(イナームルハク)が帰ってきたことから、状況は奇妙な変化を見せる。アーフターブは大のインド映画好きで、村でインド映画の上映会を開くほどだったが、サニーが映画関係者と知り色めき立ち、二人は意気投合し始めるのだ。しかし村のボスはそれを決して快く思っていなかった。

インドとパキスタンは1947年の印パ分離独立時から、混乱と衝突、痛ましい大虐殺を経て、それは三度の印パ戦争にまで発展し、現在も緊張状態が続いている。インドで多数を占めるヒンドゥー教徒と、パキスタンに多いイスラム教徒との不信と憎悪がそのきっかけとなったのだという。ただ、宗教は違えどももともとは同じ民族だったのであり、国家分断の嘆きや悲しみはどちらの国の国民にも存在しているのだろう。自分は実のところ、こういった事実をインド映画を観始めてから初めて知った。先日日本でも公開されたインド映画『ミルカ』では印パ分離独立時の生々しいトラウマが物語のテーマとなり、シャー・ルク・カーン主演の名作『Veer-Zaara』はインド人男性とパキスタン人女性の恋が陥る悲劇を描いたものだった。そしてこの『Filmistaan』も、そんな分断された国家の悲喜劇を描いた作品となる。

とはいえ、この作品は決してガチガチにシリアスな政治ドラマではない。むしろ主人公サニーの、どうにもイケテないキャラクターが、既にしてこの物語をコミカルなものにしている。主人公サニーは映画オタクだ。映画が好きで自らも俳優になりたくて、何度もオーディションを受けるも当然の如く落とされる冒頭の描写は、哀れではあるがどうにも情けない男として彼を描く。しかしなにしろ映画への偏愛は強烈だ。ムジャーヒディーンたちが犯行声明ビデオを撮ろうとした時、拉致監禁されている本人である筈のサニーが監督を買って出て、「こうしたほうが緊迫感あるよ!」などと演出してしまうシーンは思わず爆笑してしまった。さらに村でボリウッド映画上映会が開かれると、軟禁された部屋でその映画の台詞を全てソラで唱えてしまうばかりか、途中音声の不具合が出てしまうと、なんと危険も忘れて部屋から忍び出て、村民の為にアテレコまでしてしまうのだ!その時に上映されていた作品がサルマン・カーンの初期作であるという部分にも、一人のインド映画ファンとしてニヤリとさせられてしまう。

こうした【映画愛】が、次第にインド人・サニーと、パキスタン人の村人、さらにはムジャーヒディーン戦士たちとの心を近づけてゆくきっかけとなるのだ。それは、【映画】が、国家や宗教、信条などを越え、その「楽しさ・喜び」ゆえに人々をひとつにしてゆくという過程だ。いやむしろ人は、「楽しさ・喜び」の中ではもともとひとつのものであるということの証明だ。こうして『Filmistaan』は人間の普遍性を説きながら、それがいとも容易く国家や宗教を凌駕し、一つの繋がりを容易にする過程を描き切る。そしてそれを可能にした【映画】という装置の素晴らしさに、限りない【愛】を表明するのだ。愛は世界を救えないかもしれない。しかし映画愛は、どこかで我々を繋ぎ、そして救うかもしれない。こうして『Filmistaan』は映画への愛を高らかに謳い上げながら、二つの国家となってしまったインドとパキスタンの融和を訴えるのだ。