インド映画を巡る冒険(仮)

以前メインのブログに書いたインド映画記事のアーカイヴです。当時書いたまま直さず転載しておりますので、誤記等ありましてもご容赦ください。

お犬様の相続した遺産を狙え!?〜映画『Entertainment』

■Entertainment (監督:サージド-ファルハド 2014年インド映画)


「その遺産は俺のものだ!」億万長者が飼い犬に残した莫大な遺産を巡り、億万長者の息子と悪者たちが右に左に大騒ぎを繰り広げちゃう!というコメディ映画です。主演はアクシャイ・クマール、監督は『Singham』『Bol Bachchan』『チェンナイ・エクスプレス 愛と勇気のヒーロー参上』の脚本担当で今回が初監督となるサージドとファルハド。ちなみにタイトルの「Entertainment」は遺産を受け継いだお犬様の名前です!

その日暮らしのお気楽男アキル(アクシャイ・クマール)はある日、自分の本当の素性がバンコクに住む億万長者の息子だということを知ってしまいます。しかもその大金持ちが先日亡くなったことも!「やった!俺は明日から大金持ちだ!」葬儀に駆けつけ素性を明かし、さて遺産は自分のもの…と思っていたアキルでしたが、その遺産が実は億万長者の飼い犬「エンターティンメント」に残さたことを知り大パニック!しかも億万長者のまたいとこである悪党兄弟もまた遺産を狙っていたため、お話は思わぬ方向に向かっていくんです!

アクシャイ・クマール演じるアキルはお犬様を亡き者にして遺産を自分のものに!とあれやこれやの悪巧みを講じますが、なぜかお犬様のほうが一枚上手でどんな企みもあっさり見抜かれ、そればかりか自分で仕掛けた罠に自分が引っ掛かり酷い目に遭ったりしています。お犬様が大変賢いせいもあるんですが、犬すらも見抜ける罠しか思いつかず、その犬すらも引っ掛からない罠に引っ掛かるアキル…お前は犬以下かよ!?…とまあ前半はことごとくお犬様に出し抜かれ、煮え湯を飲まされるアキルの七転八倒ぶりに大いに笑わされるんですね。

お犬様の遺産を狙うのはアキルだけではありません。遺産を狙い脱獄してきた二人の男、アルジュンとカラン。この悪党二人をなんと、『ダバング』1、2作でそれぞれ悪党を演じたソーヌー・スードとプラカーシュ・ラージが演じてます。もうこの二人をコンビの悪党で登場させ、そして二人があれやこれやと掛け合いしている様子を見られるって時点で、この映画は既に必見になっているではありませんか!?いやああまりにズルイ配役だなあ!しかもコメディなだけにこの二人、微妙にマヌケなキャラ設定になっているのがまた可笑しいんですよ。

しかし、物語中盤で起こったあることをきっかけに、アキルはお犬様の味方となり、まんまと遺産を手に入れた悪党どもを倒すために立ち上がります。なんとお犬様軍団まで登場し、悪党どもをてんてこ舞いに陥れる様などは痛快ですね。ここでアキルの取った戦法は決して実力行使ではなく、口八丁手八丁で悪党どもを攪乱する、なんて部分がインド・コメディらしい安定の展開なんですね。今回のアクシャイ・クマールは実に当たり所の役柄だったし、お犬様も可愛らしかった。お話自体は非常に他愛のないものだし、特に深みがあるわけでもないのですが、逆にとても気楽に観られてスカッと笑える、そんな軽快さが楽しさに繋がる良作でした。

 

憧れが憎しみに変わるとき〜映画『Fan』

■Fan (監督:マニーシュ・シャルマー 2016年インド映画)


■狂気に囚われたファン

先頃公開されヒットしたインド映画『Fan』は大スターとその彼にストーカーのようにまとわりつくファンとの間に巻き起こった恐るべき事件を描いたサスペンス・スリラーである。物語の中心となる二人、綺羅星のような大スターと狂気に囚われた大ファンという対称的な二人を、シャー・ルク・カーンが一人二役で演じているところが見所となるだろう。

《物語》デリーに住む青年ゴウラヴにとって大スター、アーリヤン・カンナーは世界の全てだ。夜も日も明けずアーリヤン漬けの生活を送る彼は見た目が似ていることを活かし、アーリヤンの物真似でコンテスト優勝する。ゴウラヴはそのコンテスト優勝を伝えるため、アーリヤンの住む夢の街、ムンバイへとやってくる。だが一般人が大スターと容易く会えるわけがない。アーリヤンの気を引くため脅迫事件を起こし投獄されるゴウラヴ。そこにアーリヤンが面会に来て彼に言う。「君のような男はファンなんかじゃない」。憧れが憎しみへと変わり、ゴウラヴの狂気がゆっくりと頭をもたげ始める。

■インド映画お馴染みの一人二役映画

SRKが久々にダークサイドな役を演じ大ヒットした作品ということで結構期待値大で挑んだのだが、観終わってみるとまずまずの面白さかな、という感じだった。憎しみに燃えるファンというから『Ek Villain』(2014)みたいなキレッキレのサイコパス野郎が登場し地獄のような哄笑を響き渡せてくれると思っていたし、物語にしても『Badlapur』(2015)みたいな凄惨極まりない展開を期待していたのだが、やはり大御所シャー・ルクが主演とあっては一般ファンがドン引きしたあげくおしっこ洩らしちゃうような作品にはできなかったのだろう。そもそもこの作品に登場するストーカー青年ゴウラヴはサイコパスというよりも純情さをこじらせた愚か者でしかなく、見ていてイラッとさせられこそすれ恐怖を感じるような存在ではないのだ。

監督のマニーシュ・シャルマーは『Band Baaja Baaraat』(2010)、『Ladies vs Ricky Bahl』(2011)といった作品があるが、基本的にロマンス作品を得意とする監督で、こういったミステリー・サスペンスは苦手なのではないだろうか。サスペンス作品としてシナリオに穴が多く、詰めが甘い。観客を怖がらせよう、徹底的に追い詰めよう、という気概が感じられない。だからストーカー青年が愚か者に見えても理解不能な狂人には見えない、見せられない、ということなのではないか。アクションにおいても見栄えこそすれど、アクション監督に任せてお仕舞いみたいなお仕着せ感を覚えた。

物語構造にしてもインドの娯楽作品においてさんざん使用される一人二役映画だ。しかもシャー・ルクの一人二役映画と言えば『Rab Ne Bana Di Jodi』(2008)があるし、シャー・ルクが本人を髣髴させるスターとして登場する作品には『Billu』(2009) がある。そしてシャー・ルクがストーカーとして登場する作品といえば『地獄曼陀羅 アシュラ』(1994)が挙げられるだろう。これらの要素を換骨奪胎し、さらに大ファンだったジョン・レノンを射殺したマーク・チャップマンのテイストを加味すれば映画『Fan』になるというわけである。まあ要するに、それほど斬新というわけでもない。

■シャー・ルク一人二役の面白さ

かといって退屈せず楽しめて観られたのはやはり御大シャー・ルク・カーンの主演映画だからであり、そしてそのシャー・ルクが今回一人二役をどう演じ分けるかといった点にあるだろう。本人そのものの大スターを演じるシャー・ルクだが今作では『Billu』におけるふわふわした善人ではなく、あからさまな営業スマイルを浮かべ時に疲れた顔をしスタッフに当り散らす等身大の人間だ。大観衆を前にポーズをとる様はいかにも決まって見えるが、それも「そういう営業中」であることがうっすらと透けて見えてしまう……というメタな演技は流石だなと思わされた。しかも、シャー・ルクのような大スターではあるが決してシャー・ルクではないのだ。

一方ストーカー青年ゴウラヴ、これがスゴイ。シャー・ルクの演じ分けも素晴らしかったが、一人二役とはいえ大スター・アーリヤンとゴウラヴの顏が微妙に違うのだ。最初自分はこのゴウラヴをシャー・ルクによく似た別の俳優を使っていると思っていたぐらいだ(だって鼻の形が全然違う!)。これはゴウラヴの顏を特殊メイクとさらにCGでもって製作しているからであり、さらに体型すらもCG加工されている。ゴウラグはアーリヤンよりもなで肩で小柄なのだ。こうして出来上がった特殊メイク+CGのゴウラヴはシャー・ルクに似て非なるいわば「不気味の谷」ともいえる薄気味悪い造形をしており、この気持ち悪さを眺めているだけでも面白い作品だった。

インドにおけるセクシャル・マイノリティを描いた映画3作『Aligarh』『Chitrangada』『Fire』


■インドにもセクシャル・マイノリティを描いた映画はあるのだろうか?

インド映画はとかく性描写には保守的で、これらの描写はタブー視されていると思われがちだし、実際もそうであったりする。しかし最近の映画だとキスぐらいなら描かれるし、ちょっと昔の映画でも注意深く探すならそういった描写を見つけることができる。セックス描写にしても、ハリウッド映画みたいに露骨ではないにせよ、あることはある。では裸体はどうか?と思っていたら、実はこれもある。自分の観た中ではラージ・カプールの幾つかの作品がそうだったし、『Bandit Queen (女盗賊プーラン)』という映画では、辱めのために全裸に剥かれた女性や、ショッキングなレイプ・シーンまである。こうして見てみると、インド映画において性描写が全くのタブーではないことがわかる。

それではセクシャル・マイノリティの映画についてはどうだろう?去年日本でも公開された『マルガリータで乾杯を!』はセックスとレズビアンをテーマにした作品だったが、オムニバス映画『Bombay Talkies』(2013)でも短編とはいえセクシャル・マイノリティを扱った作品が盛り込まれていた。では他にこれらセクシャル・マイノリティの映画は作られているのだろうか。という訳で今回は今年公開された映画『Aligarh』を中心に『Chitrangada』、『Fire』といったインドのセクシャル・マイノリティ作品を紹介してみたいと思う。

■Aligarh (監督:ハンサル・メヘター 2016年インド映画)


映画『Aligarh』はウッタル・プラデーシュ州のアリーガル・イスラム大学で教鞭をとる教授がゲイであることを理由に退職に追い込まれ、裁判となった事件を元に描かれた実話作品である。教授の名はラーマチャンドラ・シラス(マノージュ・バージパーイー)、彼は男性と自宅で愛し合っているところを見知らぬ男たちに乗り込まれ、暴行を受けた上にビデオに撮られるという辱めを受ける。この事件は同性愛者を判じる裁判へと発展し、新聞記者のディープー(ラージクマール・ラーオ)はその取材としてラーマチャンドラの元を訪れるのだ。

インドは法律により同性愛が禁止されている国である。イギリス植民地時代から残る法律の名残りなのだが、2009年にニューデリー高等裁判所により同性愛行為の合法判断が示されたにもかかわらず、2013年、最高裁判所によって最高禁固10年という違法行為へと判断が覆されたのだ(追記:2018年9月6日、同性愛を禁じる法律は違憲無効となった)。ちなみにインドにおいてヒジュラと呼ばれる"第3の性"は合法であるとされている。

物語はラーマチャンドラ、彼を取材するディープーを中心としながら、裁判の様子と、事件当日の真実が明らかにされてゆき、同時にラーマチャンドラとゲイ・コミュニティのエピソードも挟まれてゆく。とはいえこの物語は、ことさら大声で同性愛者の人権やそれを裁く法律の違法性を説く作品ではない。むしろ、ラーマチャンドラの内面を掘り下げ、それに寄り添う形で、彼の生き方を詳らかにしてゆく。

ここでラーマチャンドラは、自分の裁判にすら興味を持たない。愛とは法律で裁くことのできるものではない、それを彼は知っていたのだろう。そんな彼は自分のささやかな人生とその愛のみに喜びを感じて生きる内向的な男として描かれる。そしてそれは、当たり前のことだが我々と何も変わらない、己の幸せを願いながら生きる男の姿だ。ゲイであろうとヘテロセクシュアルであろうと、幸せの形は変わらない。だからこそ、ゲイであるだけで、差別や暴力が許されることなど決してない、映画は、ラーマチャンドラの生き方を通してそんなことを語りかけるのだ。

■Chitrangada: The Crowning Wish (監督:リトゥパルノ・ゴーシュ 2012年インド映画)


ベンガル語映画『Chitrangada: The Crowning Wish』はコルカタに住む舞踏家ルドラ・チャタルジー(リトゥパルノ・ゴーシュ)の物語である。彼はトランスジェンダーであり、そんな彼を周囲も家族も問題なく受け入れていた。彼は戯曲「チトラーンガダー」でドラムを演奏するパルトー(ジシュー・セーングプター)と恋に落ち、結婚を考える。しかしインドの法律では同性同士の結婚は認められない。そこでルドラは性転換を決意する。だが、豊胸手術を終えたとき、パルトーが「女の体を愛したいわけじゃない」と言い出し、さらに彼の女性との浮気が発覚する。

この物語のテーマとなるのはトランスジェンダー同性婚、性転換と、非常にヴィヴィッドなものだ。監督・主演を務めるリトゥパルノ・ゴーシュもトランスジェンダーであるらしく、物語には彼自身の思いが込められていると言っていいのだろう。さらにこの物語ではトランスジェンダーの存在がごく普通に受け入れられている環境が描かれる。それは主人公が舞踏家という芸術性の高い職場・社会にいることも要因かもしれない。劇中挟まれる「チトラーンガダー」の舞台はコンテンポラリーなダンスで占められ、それが主人公の心情吐露と重なるばかりか、映画の芸術性自体を高めることに成功している。

しかし、社会や家族から十分に受け入れられていても、ルドラの表情は決して明るくない。それは愛するパルトーが思ったように彼を愛してくれないからだ。パルトーは気分屋でいい加減な男であり、さらに麻薬中毒だった。パルトーの自由さがルドラを惹きつけたが、同時にその自由さによってルドラは苦しめられていた。そしてこんな不安定で不確実な愛は、別にそれがトランスジェンダーであろうとなかろうと、我々が時に出会いつまずく愛の形となんら変わりはない。愛に喜びを得、愛の喪失に悲嘆するのは、誰であろうと一緒なのだ。

■Fire (監督:ディーパ・メータ 1996年インド・カナダ映画


典型的な見合い結婚でニューデリーへと嫁いだシータ(ナンディター・ダース)が待っていたのは幻滅だけだった。彼女が期待されていたのは重労働を担う無償の使用人でしかなく、さらに夫は結婚前から愛人がいた。そんなシータを慰めるのは優しい兄嫁のラーダ(シャバーナー・アーズミー)だけだった。ラーダにとってもシータの溌剌とした若さは生活に新鮮さをもたらした。ラーダはこれまで、課せられた家事を黙々とこなし、家を支えてきた女だったが、13年間性交渉の無い夫との生活に密かな不満を覚えていた。そして二人の間にはいつしか愛が芽生えてゆく。

インドに生まれカナダで活躍するディーパ・メータ監督による映画『Fire』は女性同士の性愛を描いた作品だ。そしてその背景にあるのは閉鎖的で息苦しい男社会の中で生きざるを得ない女たちの抑圧と孤独である。この作品において男たちは女とは須らく男に付き従うべしという旧弊な価値観しか持たず、女に求められているのは使用人の如き労働と性処理だけだ。女にとって居場所のないこの世界で、彼女らは慰めあい慈しみあえる、お互いの腕の中という居場所をやっと見つけるのだ。

同時にこの物語は、意識を変える新しい価値観を描くものでもある。ラーダにとって結婚生活とは、忍従が当然のものであり、彼女はそこで一切の私情を挟むことなく日々を過ごしていた。だが若く新しい価値観を持つシータの登場により、ラーダは自分の生き方に疑問を持つようになる。そしてこれまで尽くしてきた家庭が、単なる牢獄でしかなかったことを知るのだ。彼女らはそれぞれの家庭からの逃走を試みる。そしてそれは旧弊で陰鬱な男社会からの逃走でもあった。しかし彼女らは、誰もと同じように愛が欲しかっただけであり、そして幸福に生きたかっただけなのだ。

ハイジャック犯に立ち向かった一人の女性を描く実話物語〜映画『Neerja』

■Neerja (監督:ラーム・マドゥワーニー 2016年インド映画)


1986年9月5日。ムンバイ発ニューヨーク行きパンナム航空73便は、カラチ空港で乗り継ぎ中、突如過激派によるハイジャックを受ける。事態を察知したパイロットらはいち早くコックピット内より脱出、飛び立つことの出来ない旅客機の中には乗客乗員377名が残された。窮地に立たされた4名のハイジャック犯はパイロットの搭乗を要求、受け入れられない場合は乗客を一人ずつ殺してゆくと宣言した。そんな中、客室乗務員の一人ニールジャー・バノートは乗客の命を救う為、決死の覚悟で力を尽くす。その時、彼女はまだ22歳だった。

映画『Neerja』は、実際に起こったこのハイジャック事件を題材に、客室乗務員ニールジャーを主人公として描いたサスペンス・スリラー作品である。ニールジャーを演じるのは最近『Prem Ratan Dhan Payo』『Khoobsurat』と名作秀作が目白押しのソーナム・カプール。また、ニールジャーの生還を心の底から願う母ラーマを、『Ankur』『Arth』などの社会派映画で定評の演技力を誇るシャバーナー・アーズミーが演じている。

まず最初に書くが、事実を基にした物語である以前に、映画として非常に面白かった。ハリウッド作品だともう単なるハイジャック事件なら映画にすらならず、むしろ「航空機密室サスペンス」といったストーリーに流れているように思えるが、ハイジャック事件でもまだこんなに面白く緊張感に満ち溢れた映画が作られるのだということを目の当たりにした。ハイジャックを描いたものとしてこの作品がまずユニークなのは、「飛び立つことの出来ない航空機の中の立て籠もり」であるという部分だ。さっさとコックピット・クルーに逃げられてしまうというのはある意味滑稽ではあるが、現実だからこそこんな滑稽な状況が生まれ、それがまたドラマになってしまうというのも確かなのだ。

そしてこの物語の主人公が、たった22歳の女性客室乗務員である、ということだ。マッチョな警官や軍人という訳ではないのだ。確かにハイジャックを含む航空機サスペンスでは客室乗務員が重要な役割を充てられるが、この作品ではか細くか弱い若い女性が、孤軍奮闘して乗客たちを守ろうとし、ハイジャック犯と交渉するのである。時には怯え、泣き出すこともありながら、彼女は命懸けでそれをやり通そうとするのである。そんな彼女がモデルの過去を持つというのも十分ユニークだ。彼女がこの「たった一人の戦い」を繰り広げた背景には、かつての夫に苦しめられ、勇気を持ってそれを乗り越えようとした過去があり、この事件にも、同じように勇気を持って挑もうとしたからだった。この部分は映画的脚色だとは思うが、作品に十分な説得力を与えることに成功している。

一方、ハイジャック犯たちの狂犬ぶりが物語の緊迫感をいやがうえにも高めることになる。彼らはパレスチナ解放機構から分派したアブ・ニダル組織に属しており、キプロスへの飛行と仲間の刑務所釈放を要求するはずだった。アサルトライフル、ピストル、手榴弾、およびプラスチック爆薬のベルトで武装していた彼らだったが、「飛び立たない飛行機」をハイジャックしてしまうという誤算から、計画に混乱が生じ、頭に血の上ったハイジャック犯の一人が闇雲に乗員を殺そうとし始めるのだ。そしてこれが、怖い。物語途中でニールジャーが頭に銃を押し付けられるシーンがあるが、こんな途中で主人公が死ぬことはないと知りつつも、その恐怖感が圧倒的に迫って来るのだ。いつ殺すか分からない狂人のような男を相手にしながら、ニールジャーは乗客の為に薄氷を踏むような戦いを続けるのである。

このように、物語はいたってシンプルでストレートであり、上演時間も122分とインド映画にしては十分にタイトなものだ。舞台は旅客機内を中心に進行することになるが、途中途中でニールジャーの安否を気遣う彼女の家族の様子、そしてニールジャーの回想などが挿入され、実に効果的なアクセントになっている。サスペンスは直球であり、描写に情け容赦なく、そしてこれらが殆ど現実にあったことだという重さが胸にのしかかる。娯楽映画としてもドキュメンタリーとしても非常に秀逸な作品であったのは間違いない。ただ、娯楽作品として観たいのなら、事件のことは予め調べないほうがいい。この作品はインド映画ではあるが、インド映画がどうこう言う以前にサスペンス・スリラー作品として最上の作品だった。サスペンス・スリラーの好きな映画ファンに是非お勧めしたい作品だ。

家族の再会が引き起こした大きな波紋〜映画『Kapoor & Sons (since 1921)』

■Kapoor & Sons (since 1921) (監督:シャクン・バトラ 2016年インド映画)

カプールさんと息子たち

最初タイトル「カプール&サンズ」というのを見た時は「そうかそうかプリトヴィラージ・カプールから始まるインドの映画一家カプール一族のドキュメンタリーか、ランビール・カプールやカリーナー・カプールあたりは本人役で出て来るのか、いやポスター見るといないようだから代役と言うことなのか、でもそんなドキュメンタリーあんまり観たくないなあ」などと思っていたのである。ところがそれは全くの勘違いであった。映画一家とはまるで関係ない普通のカプール家を描くフィクションなのらしい、そう知ってやっと観ることにしたのである。
物語は何しろカプール家の人々を描いたものだ。インドのクーヌールという所にカプール家は家を構えていたが、そこのお爺ちゃんが心臓発作を起こす(実はこのお爺ちゃんはホントのカプール映画一族の出であるリシ・カプールが演じている)。お爺ちゃんと同居していたカプール夫妻、スニターとハルシュは急遽海外で生活していた二人の息子、ラーフル(ファワード・カーン)とアルジュン(シッダールト・マルホトラ)を呼び戻した。お爺ちゃんは一命を取り戻し、なんとか安心に見えたのだが、実はカプール家の面々はそれぞれに問題を抱えていて、彼らが一堂に会したことによってその問題が大きく吹き上がってしまうのだ。

■家族の再会

それぞれがばらばらに暮らしていた家族が、身内の入院やら不幸で再び再会し、そこで改めて家族としてのお互いを再認識する。こんなことが自分にも身に覚えがある。一昨年、郷里に住む自分の母親が入院して、それまで殆ど帰ってなかった実家へ里帰りすることになった。そこで10年振りくらいに弟や妹夫婦と会い、さらに叔父や叔母と、これはもう30年振りくらいに会うことになった。彼ら家族親戚とあれこれ話している中で、「自分の血縁とはなんなのだろう」と考える機会ができた。それまでいろいろと理解していなかったものが、するすると理解できるようになった。これまで避けていた血縁との再会は、結果的にはとても素晴らしいものになった。
ところがこの作品におけるカプール家はそうはいかなかったらしい。スニターとハルシュのカプール夫妻は考えの行き違いや女性問題などでギスギスした関係になっていた。ラーフルとアルジュンの兄弟は過去のちょっとした怨恨が収まったように見えながら、今度は地元で出会ったティア(アーリヤー・バット)との三角関係に発展しつつあった。こうして過去の問題と現在の問題がグジュグジュと化学反応を起こし始め、それは次第に大きな破局へと近付いてゆく。そんな中でただ一人、一家の長老であるお爺ちゃんが悲しい目をして右往左往することになってしまうのだ。

■非常に巧みなシナリオ

一見して非常に巧みなシナリオを持つ作品だと感じた。この物語では家族の多くが秘密を抱えている。その秘密は冒頭から様々な伏線を張りながら交錯しあい緊張感を高めてゆきながら、ある日嵐の中のダムのように決壊を起こす。この破局のポイントまでの構成が恐ろしいくらいに巧みなのだ。よくもまあここでここまで繋げたなあ、と思う。そしてこうした破局を経ながらもどうやってもう一度家族の輪を取り戻してゆくのかがこの作品の大きなテーマとなる。彼らの秘密は秘密のままであったほうがよかったものなのかもしれない。だがその秘密が発露したその先でさえも、あくまで誠実な家族同志であろうとするのがこの物語なのだ。
かつてインド映画といえば強権的な父を頂点とした家族主義の物語が多く観られたが、この作品では既にそういったヒエラルキーは存在しない。この作品ではそれぞれが時には間違ったこともする弱い個として描かれ、そして家族であるばかりにより一層強い感情を相手にぶつけ、親も子もなくいがみ合うことになる。ある意味インド的な家族主義が現代においてここまで解体されたと見ることが出来るのと同時に、それでもなお家族を乞い求めようとするする部分に決して変わらない家族愛の在り方を見て取ることが出来る。この物語性の豊かさは日本で公開されても十分受け入れられるものだと思うし、ハリウッドあたりでリメイクしても通用する秀逸さを感じた。

■(余談)ポップアップの女優の意味は?

ちなみにオレにもわかったインドネタを一つ。お爺ちゃんが愛でていた映画の名はラージ・カプール監督最後の作品『Ram Teri Ganga Maili』(1985)で、お爺ちゃんの持っていたポップアップは主演女優マンダキーニ。この映画、何が凄かったかって、当時ですら保守的なインド映画界でヒロインが堂々と乳房を見せちゃってる、という部分だった。ポップアップでのヒロインは白い衣装を着ているけど、本当はあの衣装のシーンではヒロインの乳房が透けまくっていたのだ。だからお爺ちゃんそこが大好きで忘れられなかったんだねー。

オッサンのオッサンによるオッサンのためのインドのオッサン映画『Welcome Back』

■Welcome Back (監督:アニース・バーズミー 2015年インド映画)


実はこの『Welcome Back』、あまり食指が動かなかった映画であったのも確かだ。なんとな〜く華がないし、それに大味そうだ。『Welcome』という作品の続編らしいがこれも観てない。しかも監督がアニース・バーズミー。彼の監督作品は『No Entry』(2005)、『Singh Is Kinng』(2008)あたりのコメディ作品を観たことがあるが、シチュエーションやアクションで笑わせるというよりも、細かい会話のニュアンスで可笑しさを醸し出す監督で、字幕と睨めっこしながら観なければならないのが少々しんどかったのである。
とはいえ、予告編を観たところとりあえず派手に作ってある。ドバイの高層ビルで花火バチバチとか、キンキラキンの大邸宅とか、なんだか大人数のダンス・シーンとか、「ゼニ掛けてまっせぇ!」という主張は伝わってくる。大味で派手、というのならむしろ高画質で観たほうが楽しめるか?と思いわざわざBlu-rayで購入して観ることにした。

《お話》ウダイ(ナーナー・パーテカル)とマジュヌー(アニル・カプール)はコワモテのギャングとして恐れられていたが、今はホテル経営者に転身し、ドバイで悠々自適の生活を送っていた。そんな二人の前にある日父親が現れ、実は二人には妹ランジャナー(シュルティ・ハーサン)がいること、そして彼女の花婿を探してほしいことを頼み込む。ウダイとマジュヌーは知り合いのグングルー(パレーシュ・ラワル)に前妻との息子がいるはずだとあたりを付ける。しかもその息子アッジュー(ジョン・エイブラハム)は既にランジャナーと恋仲だったのだ。ただし問題は彼がムンバイを仕切るマフィアだということだった。さらにマフィアのドン、ウォンテッド(ナスィールッディーン・シャー)の息子がランジャナーに岡惚れしていたことが発覚、単なる婿探しがマフィア同士の抗争にまで発展してしまう!

いやー最初の予想通りの映画だった。派手で大味。これに尽きる。予告編にあったままに、とりあえずドバイの高層ビルと、とりあえずキンキラキンの大邸宅である。とりあえず高級車でヘリコプターである。主演の皆さんはとりあえず高級そうに見えるヤートラ(ヤーサン・トラッド)なファッションに身を包む。「ゼゼっこしこたま持っててウハウハだっぺ!」というアゲアゲな様子は大変よく分かるが、品が無く田舎臭く趣味が悪い。なにもかもが「とりあえず」な大雑把さで占められ、スカスカで締りがない。しかし観ていて思ったのは、この映画の中心ターゲットはインドのオッサンだったのではないか、ということだ。インドに限らず世界の、世間一般のオッサンというのは、その基本が品が無く田舎臭く趣味が悪い生物である。オレも一介のオッサンとしてしみじみとよく分かる。主人公がマフィア、というのも「まともに仕事しなくていいし何かに縛られる必要もない」という、インチキな人生に限りなく憧れるオッサンらしい。

コメディとしての質も実にオッサンらしい。せいぜいが登場人物であるマフィアの皆さんが無意味に凄んでみせたり、下らないことでいさかいを起こしたりといったぐらいのもので、要するにマウンティング・ポジションにうるさいオッサンならではのものだ。そしてそれらのギャグがことごとくしょーもない。オッサンという生き物は往々にして寒い親父ギャグを飛ばし周囲から顰蹙を買うが、言ってる本人は意外と面白いと思っている、それである。ダンス・シーンに関しても、派手で大人数なだけで振り付けは相当につまらない代物だが、このセンスの無さも「オッサンのセンスだから」と思うと納得できるではないか。しかし、若いカップルの為にあくせくするのは、「こういうのはオッサンに任せとけ!」というオッサンならではの親方根性と、そして優しさなのではないかと思う。この映画に存在しないのは「オッサンのエロ」で、主役の二人は結婚詐欺の女二人に遭遇するぐらいだが、そこでギンギラギンにエロに走らないのは、実は奥手ではにかみ屋のオッサンだからこその可愛らしさなのである。

それよりもこの作品の本当の見所は他にある。それは身欠きニシンの如くじんわり油の沁みだしたオッサン俳優たちの総出演である。アニル・カプールとナーナー・パーテカルが主演として活躍する作品というだけで既に相当なオッサン臭を醸し出しているが、これにさらにパレーシュ・ラワルとナスィールッディーン・シャーが出演しているのである。これはもうとろ〜りとろりと三日三晩煮込んだ豚骨スープ並みにこってりぎらぎら、濃厚なケモノ臭の香り立つ作品だということができよう。こんなオッサンたちの黒く固くビンビンな姿をBlu-rayのHD画質で微に入り細にわたり観る喜び、これがこの作品の醍醐味である。はっきり言ってジョン・エイブラハムのアクションもシュルティ・ハーサンの大味な美貌もどうでもよかったぐらいである。オレはアニル・カプールが吠えナーナー・パーテカルがしかめ面をするだけで陶然となってしまった。そんなわけで浴びるようにインドのオッサンたちの姿を堪能したいアナタ、そんなアナタにこそこの『Welcome Back』がふさわしいであろうと思う。

ハンディキャップとセクシャル・マイノリティ〜映画『マルガリータで乾杯を!』

マルガリータで乾杯を! (監督:ショナリ・ボース 2014年インド映画)


この『マルガリータで乾杯を!』は、2015年に日本でも劇場公開されたインド映画なのではあるが、個人的に難病/障害者映画と主演女優のカルキ・ケクランが得意じゃ無かったので観に行ってなかった作品である。しかし先ごろソフト化されたのでレンタルで観てみることにした。

物語は(おそらく脳性麻痺による)障害を持ち、会話や動作が不自由で、車椅子生活を送る大学生のライラ(カルキ・ケクラン)が主人公となる。こんな彼女が普通に恋をしたりセックスしたり、未来を夢見てNYに留学したり、そこで出会った目の不自由な女性ハヌム(サヤーニー・グプター)との同性愛に目覚めてセックスしたり、インドに帰国したら母親が重病だったりするというものである。

障害者であることとバイセクシャルであること、すなわちハンディキャップとセクシャル・マイノリティの二つのテーマを持った作品であるが、同時に障害者のセックス、というテーマも盛り込まれることになる。これはややもすれば重く悲痛になりがちな題材であり、描き方を間違えるとあざといものになってしまう題材でもある。にもかかわらずこの作品では、これらテーマを"ごく当たり前"のこととして軽やかに描き出す。

ハンディキャップを持つ者やセクシャル・マイノリティである者が現実社会において過酷な労苦や痛ましい偏見にさらされることは残念ながらあるだろう。しかしこの作品ではこれら労苦や偏見をあえてクローズアップせず、彼らを強いて「特殊」な存在として描かない所がユニークであると言えるかもしれない。ハンディキャップであるなら社会が十分にそれに手を差し伸べ、セクシャル・マイノリティにしてもそれもありふれたひとつの愛の形として、それらが決して奇異でもなんでもなく、「特殊なこととして描かない」のがこの作品なのだ。

確かに、主人公はハンディキャップを持つことで恋をする不自由さを感じたり、また、同性愛であることを母親に受け入れてもらえなかったりといった困難は描かれる。しかしこの作品の持つ軽やかさは、そういった困難すら「特殊であること」が原因としてではなく、誰もが普通に恋に悩んだり人生につまづいたりするかのように描き出す。人は例えば貧富の差や人種や宗教の違いでこれらにつまづくことがある。しかしこれらの要因は「人」であるうえで特殊なことではない。それと同じようにハンディキャップとセクシャル・マイノリティを「人」であるうえで特殊なこととして描かないのがこの作品の独特さと言える。

逆に言うなら、この「特殊ではない」こと、「ごく当たり前」であること、それらによってドラマそれ自体が平凡に流れていってしまい、ありふれた「恋とセックスと家族の悩み」以上の作品になっていないところが惜しい。「特殊なこととして描かない」部分にこの作品の主眼があったばかりに、ドラマという「特殊なこと」が存在しないのだ。これは「特殊なこととして描かない」ことそれ自体に価値を見出すべき作品であるといえるかもしれない。

マルガリータで乾杯を! [DVD]

マルガリータで乾杯を! [DVD]

  • 発売日: 2016/05/25
  • メディア: DVD