インド映画を巡る冒険(仮)

以前メインのブログに書いたインド映画記事のアーカイヴです。当時書いたまま直さず転載しておりますので、誤記等ありましてもご容赦ください。

雪深きカシミールを舞台に繰り広げられるハムレット悲劇~映画『Haider』

Haider (監督:ヴィシャール・バールドワージ 2014年インド映画)

分離独立を巡り軍とゲリラとが熾烈な紛争を繰り広げるインド・カシミール地方を舞台に、シェイクスピア4大悲劇戯曲の一つ『ハムレット』の物語を展開した、というインド映画である。主演は『R… Rajkumar』のシャーヒド・カプール。また、監督のヴィシャール・バールドワージはこの『Haider』の他にもこれまで『マクベス』『オセロー』のシェイクスピア戯曲を映画翻案しているらしい。

カシミール紛争に揺れる1995年、医師ヒラール(ナレーンドラ・ジャー)はゲリラに対する外科治療を行ったことから逮捕監禁され、さらに銃撃戦の末その家は焼かれてしまう。大学から故郷の町に帰ってきたヒラールの息子ハイダル(シャーヒド・カプール)はその事実に驚愕するが、さらに彼を驚かせたのが母ガザラー(タッブー)が父の義弟であるフッラム(ケイ・ケイ・メーノーン)と再婚していたことだった。行方不明の父と母の不義理に苦悩するハイダルに、ある日ルーフダール(イルファーン・カーン)という男が接触し、父ヒラールの非業の死を告げる。ルーフダールはゲリラの一人であり、かつて父と同じ収容所に収監されていたのだ。そこで父が語ったのは、義弟フッラムの陰謀に陥れられたという事実であり、そしてハイダルに、復讐を果たしてほしい、というメッセージだった。

陰鬱である。ひたすら陰鬱な物語である。雪深く灰色の雲垂れ込めるカシミール、その地を血の赤と爆炎の黒に染めるゲリラ闘争、その水面下で進行する薄汚い陰謀。そして燃え上がる復讐の情念、成すべきか、成さざるべきか、という究極の葛藤。映画『Haider』は20世紀のインドの町をシェイクスピア悲劇の舞台である陰鬱なるヨーロッパへといとも容易く塗り替えてしまう。物語は徹頭徹尾重苦しく息苦しく、屍累々たる映像はシェイクスピア原作でさえここまでではなかったはずだと思わせるほど凄惨だ。こうして映画『Haider』は魂すら凍えるような悲劇を徹底的に描きつくそうとする。物語は『ハムレット』を非常に丁寧になぞっており、父の死とそれに関わる陰謀、それを主人公に伝える謎の声、母の不貞、狂気を装う主人公、復讐、葛藤が盛り込まれ、登場人物の配役にしても端々まで抜かりはない。

しかし原作の翻案通りではあるけれども映画として見ると唐突だったり説明不足だったり(オレの理解力不足もあるが)、「現代で考えるとちょっと有り得なくないか?」と思わせてしまう部分がちらほらありはしないか?同時に、これはこの映画に限ったことではないが、戯曲作品の映画化は簡単なように見えて原作を映画の映像に移し替えるとシチュエーションや展開が極端だったり急すぎたりすることがあるのだ。戯曲には戯曲ならではの物語時間と物語空間があるから、それを不用意に映画に移し替えると微妙なちぐはぐ感を生んでしまう。『Haider』にはそういう印象を持った。例えばハムレットが狂気を演じるようにハイダルが狂気を演じてもなんだかやはり可笑しいし唐突だし、オフィーリアのようにヒロインは自死するけれども、現代的に考えるならそんなことで死んじゃうかあ?と思えてしまう(※原作のオフィーリアは自死か事故死かは曖昧にされている)。

それとやはり、非常にリアルでシリアスな政治問題をハムレット物語に持ち込んだのは失敗に感じた。シリアスな政治問題を持ち込みながら文芸作品として堂々成功する作品もあるけれども、この場合さらにシェイクスピア作品って、う~んなんだかテーマ二つは盛り込み過ぎのように思えるんだがなあ。そもそも、ハムレット物語の「殺された父の復讐」ってある意味ファンタジー(絵空事)なわけで、それなら舞台も絵空事なもののほうが落ち着くんじゃないのか。しかしこれをリアルな舞台に持って来られると、観ているこっちもリアルに反応して「復讐という選択肢以外ないってどういうこと?」と思っちゃうんだよ。さらに言ってしまえばカシミール問題がなくてはならない重要な背景ではなく、ハムレットの復讐物語を成り立たせる為の便宜的な舞台でしかない、ということもいえてしまうんだよな。物語の徹底的な救いの無さも含めて、そういった部分でオレには合わなかったなあ。